2006年5月17日。いよいよ出発。 関空からデトロイトまでのフライトは特に問題なし。 デトロイト空港で、通訳としての初仕事が待っていた。 ツアーメンバー全員が無事に税関を通過するように見守る事。 「もし何か問題が発生するようなことがあれば、すぐにメンバーの元に走っていって通訳をして欲しい」 とボスに言われた。 そこで、メンバーを自分よりも先に行ってもらい、後ろから様子を見守る。 メンバーの中には英語が全く話せない人達がいたが、この人達は問題なく通過。 メンバーの中に1人、在日韓国人がいた。ボスはこのメンバーのことを少し心配していた。一週間だけの観光客なので問題はないはずなのだが、私達と異なるのは彼のパスポートには日本国のビザが貼られているという事。前回同じ条件の在日韓国人がツアーに参加していて、本人がうっかりビザを更新し忘れていた(もしくは持って来るのを忘れていた)せいで、別室に呼ばれて延々と説明をしなければならなかったことがあったのだとか。 そんなことをボスから聞いていたので、ツアーメンバーが税関を通るときは本当にドキドキした。 しかし、私達の心配をよそに、彼はすんなり笑顔で税関をパスした。 全員が無事に税関を通過して、ほっと一息。 ここで、あることに気が付いた。ボスの目が、絶えずメンバー全員に満遍なく配られていることに…。 ** ちゃんと全員揃っているか? ** ** 体調が悪そうな人はいないか?** ** みんな、楽しんでいるか? ** ** 助けが必要な人はいないか? ** ボスはもう何年もこのツアーを主催し、お客さんを引率している。こういったことは体で自然に覚えたのだろう。今回は私もスタッフだ。ボスがやっているように、さりげなくメンバー全員に満遍なく注意を向けなければ…。 とても良い経験をさせてもらっている…。そんな風に感じた。
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2.メンバーとの顔合わせ、ラコタツアー
2006年4月14日。サウスダコタ・ツアー参加者との顔合わせ(オリエンテーション)が開催された。 以降この記事内では、ツアー開催者であり、兄弟子であり、仕事の依頼者である彼のことを、便宜上 「ボス」 と表記することにする。 今回の参加者は、高齢の方(50代・60代)が4名と20代の若者が3名。ボスと私を合わせると全部で9名のツアーになる。 今回行く場所は、サウスダコタ州のシャイアン・リバー保留地というところ。正式名称は CHEYENNE RIVER SIOUX RESERVATION という。ボスにとっては第二の故郷となった場所だ。ボスはこの地にもう20年以上通い続けている。現地にはボスが兄と呼んで慕っているラコタ男性がいて、この男性が現地でのホストになる。 ここでちょっと、ラコタについて説明しておきたい。 ラコタ族というのはアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)の部族の一つ。一般に日本人がイメージするアメリカ先住民の姿というのは、ティピと呼ばれるテントに住み、羽根冠を被り、馬に乗り大平原を駆け回るという人々だと思う。これらはラコタの人々のことだ。 「ラコタ」というのは総称で、ラコタ、ダコタ、ナコタのことを指す。それぞれ、さらに支族に分けられる。 ラコタの支族は以下の7つ。 ① シカング (Burnt Thigh People) (ローズバッド居留地に住む)ブリュレとも呼ばれている ② ハンクパパ (Camps at the Edge) (スタンディングロック居留地に住む) ③ オグララ (Scatter Their Own) (パインリッジ居留地に住む) ④ ミニコンジュ (Plants by the Water) (シャイアン・リバー居留地に住む) ⑤ イタジプチョ (Without Bow) (シャイアン・リバー居留地に住む) ⑥ シハサパ(Black Feet) (シャイアン・リバー居留地に住む) ⑦ オーヘヌンパ(Two Kettle) (シャイアン・リバー居留地に住む) ********************Continue reading “2.メンバーとの顔合わせ、ラコタツアー ”
1.サウスダコタ・ツアー主催者との出会い ラコタツアー
2005年12月23日、ある日本人男性が私に思いがけない仕事を依頼してくれた。2006年5月17日から5月23日までのサウスダコタ・ツアーに、私を通訳として正式に雇ってくれるとのこと。 アメリカ・インディアン保留地に日本人のお客さんを連れて行くツアー。これに自分が通訳として雇ってもらえる! 何て光栄な事だろう! これ以上の笑みはないというほど満面の笑みで、私はこの仕事を承諾した。その日はスキップで帰ったのを、今でも鮮明に覚えている。 この一連の記事を書く前に、このツアーの主催者との出会いについて触れておきたい。彼との出会いには、実はナバホ父が関連している。 ******* 今から8年前の1998年12月30日。私が初めてナバホの大地に足を踏み入れた日。私はナバホ父と出会った。 右も左も分からなくておどおどしている私に、ナバホ父はこんな風に声を掛けてくれた。 「俺には日本人の友人がいるんだ。とても良いやつだ。とても親切にしてもらった。だから彼と同じ日本人には、親切にしてあげたいと思って声を掛けたんだ」 父が話していた日本人の友人とは、今回のツアー主催者のことだった。 彼は、私がナバホ国へ行くようになる10年ほど前にナバホ国を訪れ、ナバホ父からピースメイキングを学んだのだ。 ナバホ父にとって彼は、日本人の友人第一号であり、ピースメイキングを教えた日本人弟子の第一号でもある。 だから彼は、私の「兄弟子」でもある。 そして、私とナバホ父を出会わせてくれたこと、それに親しくなるきっかけを間接的に作ってくれたのは、この人なのだ。 私はこの兄弟子さんにお会いしたいと思っていた。 偶然にも、彼は私と同じ都道府県に住んでおり、会おうと思えばいつでも会える距離にいたのだ。 4年ほど前に一度、彼と電話で話したことがある。その時は、会うまでには至らなかった。それでも私は、いつかこの人に必ず会うことになっていると、確信していた。 物事にはすべて、ベストタイミングがある。 スピリット達には何か目的があって、今は会えないようにしているということを、私は知っていた。 ************ 兄弟子との出会いは、突然訪れた。 しかも、出会いの場所は、ナバホの大地だった。 2005年7月13日。私が日本に帰国する前日。翌朝8時アルバカーキ発の飛行機に乗らなければいけないので、ナバホ家族が夕方の内に私をアルバカーキまで送ってくれることになっていた。 夕方4時。アルバカーキ出発の予定時刻になって、突然ナバホ父が予定を変更した。 「今晩は家で過ごす。明日の早朝4時に出発するぞ」 父は一度言い出したらきかない。私達は父の言い分に従わざるを得なかった。 予定を変更した理由を聞いても、父はただニヤリと笑っただけ。ナバホ父はメディスンマンで、スピリットの声を聞くことが出来る。そのことを、私達は充分過ぎる程に知っていた。だから、父が明日朝出発することに決めたのは、きっと何か意味があることも分かっていた。 夕方7時過ぎ、夕食を終えて台所で洗い物をしていると、誰かがドアをノックしている音が聞こえた。 ナバホ母がドアまで行って、驚いた表情で台所に戻ってきた。 「とても懐かしいお客さんが来たわよ!」 ナバホ母はとても嬉しそうだ。 「あなたが会いたがってた人よ」 と。 「???」 私の知り合い? 誰だろう? 考えを巡らせる間もなく、3人の日本人男性が家の中に入ってきた。 その内の1人がこの兄弟子だった。ナバホ父に紹介された時は、本当にビックリした。会いたいと思っていた人との出会いがこんなに唐突にやってくるなんて! 会えると分かっていたら、もうちょっと身だしなみもきっちりしておいたのに…。 私は勝手に彼のイメージ図を作り上げていた。ナバホ父と同じ位の年齢で、体のでっかい人。 しかし、兄弟子は実際のところ、それほど年上の人ではなく (私より7歳年上)、スリムな体に小さな顔の男性だった。 ナバホ父は兄弟子の来訪を本当に知らなかったようだ。 なぜなら、彼の来訪を誰よりも驚いていたのは、父だったからだ。 ともあれ、私と彼は、こんな風に対面した。 私はこの出会いを、本当に感謝している。 それ以来、彼は私をラコタの世界へと、さらにグイグイ引っ張ってくれることになったからだ。
「ナバホの人々の苗字」 ナバホ情報
ナバホの人々は元々苗字を使っていなかった。それに、白人はナバホ語でナバホの人々の名前を正しく発音することが困難だった。そこで、BIAはナバホの人々を管理するため、便宜上の苗字を帳簿につけた。これが苗字の始まりだとされている。 現在、ナバホで最も多く使われている苗字は Begay とYazzie だと思う。Begay はナバホ語で「彼の息子」という意味で、Yazzie は「背の低い、小さい」という意味。 その他の苗字では、Benally、Tso、Nezなどがあるが、それぞれ「彼の祖父」、「太った」、「背の高い」という意味のナバホ語である。
「クラン制度」 ナバホ情報
ナバホにはクラン制度というものがある。赤ん坊が生まれると、その赤ん坊は母親のクランを引き継ぐことになっている。また、ナバホ男性がナバホ女性と結婚する際には、互いのクランのグループが全く異なるグループに所属しなければならない。 ナバホの人が自己紹介をする際には、自分に関連する4つのクラン名を言う。 まず、自分のクラン名(母親のクラン名)Born to xxx 次に、父親のクラン名 Born for xxxx そして、母親の祖父のクラン名 最後に、父親の祖父のクラン名
「ホーガン」 ナバホ情報
ナバホの人々の伝統的な住居は、ホーガンと呼ばれている。ナバホの人々のことを知りたいと思うなら、ホーガンについて学ぶと良いだろう。なぜなら、ホーガンのしくみには、ナバホ哲学がすべて盛り込まれているからだ。私もナバホ父と出会った最初の頃に、ホーガンのしくみについて教わった。 ホーガンは基本的に木材と土(粘土)で作られる。ホーガンで暮らしたことのある人なら誰でも、あの独特の土の匂い、暖炉で薪がパチパチと音を立てて燃える音、暖かさなどを懐かしく思い浮かべることだろう。 ホーガンは家族が集まる場所。祖父母や両親から物語を聞き、共に食事をとり、笑い、泣き、セレモニーを受ける場所。 ホーガンの入り口は東に向けて建てられる。 新しい日のエネルギーがホーガンいっぱいに入るようにするためだ。 ホーガンの中を歩く際は、太陽と同じ方向、つまり時計回りに歩く。 大抵のホーガンの中には、床を張っていない。 大地の上にそのままブランケットを敷いている。つまり、ホーガンで暮らすということは、常に大地に触れることができるのだ。 ナバホの人達は、母なる大地のことをこんな風に説明してくれた。 「私達が大地に触れることによって、私達は大地から癒しのエネルギーと愛をもらう。 大地もまた、私達から癒しのエネルギーと愛を受け取る。 ホーガンの中が不思議なほど居心地が良くて落ち着くのは、知らず知らずのうちにそのエネルギーと愛の交換がなされているからだと思う」 ホーガンの中央には暖炉があり、まっすぐ空に向かって煙突が伸びている。 天井の部分は開口部になっており、空が直接見えるようになっている。 つまり、ホーガンの中は、父なる宇宙と母なる大地の間であり、バランスが取れた場所であると言える。 セレモニーの際は、南側に男性、北側に女性が座る。 西側にはメディスンマンと患者が座る。
「ナバホピースメイキングの7ステップ」 ナバホ情報
ピースメイキングには7つのステップがある。 1.準備段階としての情報を得る。 歴史から、経験から、セレモニーでのメッセージから、神話からの教えを共有する。 2.開会の祈りと参加者の自己紹介 スピリット達に助けを請う。 3.情報の開示 当事者が、なぜピースメイキングが必要なのかという理由や、ゴールを共有する。参加者達は、自身の経験や知識を共有する。知識と経験を正しく使うことによって、参加者全員が癒される。大切なのは、知識や経験を独り占めしないこと。ピースメイキングには、みんなの力が必要だからだ。その場に集まった参加者達は全員、そこにいる必要があるからこそ、共有するものがあるからこそ、その場にいるのだということを理解する。異なる経験、知識を持つ人が集まれば、いろんな意見が出て、新しい発見ができる。 4.問題解決の手段・方法を発展させる。 5.問題をはっきりと認識し、再発防止のための手段・方法を話し合う。 6.ピースメイキングで得た知識・発見を公表し、宣言する。ここでは、単なる口約束や握手を交わすだけではなく、きちんとした公的な書類に署名することによって、約束する。 7.閉会の祈り 祈りを通じて、各人の使命・任務を再認識する。
「ナバホピースメイキング」 ナバホ情報
ピースメイキングとは、知識を正しく使って問題を解決する理論のこと。 その際に使用する知識とは、ナバホの概念・理論で、これはナバホ神話に基づいている。 これらの教えの中には、自分、家族、周囲の人、世界、宇宙とのつながりを意識し、大切にすることが含まれる。 人間はみな、ユニークな存在だ。だからこそ、存在価値があり、貴重なのだ。誰もが特別なギフトを与えられてこの世に誕生する。その自分にしかない特別なギフトを、正しい場所で正しい人達と分かち合っていかなければならない。 ピースメイキングで大切なことは、まずすべての人を同じステージに立たせること。互いに批判したり、どの考えが正しくてどの考えが間違っていると決め付けることはできない。批判や決め付けは、とても危険なことだ。 例えば、宗教について。キリスト教、ナバホの伝統的な教え、ネイティブアメリカンチャーチ信仰、仏教、イスラム教などなど、名称や方法は異なるが、本質的に目指しているゴールは同じなのだ。考え方、行き方が異なる。ただ、それだけのこと。ピースメイキングを通して、そのことを理解していく。 ナバホでは K’e という言葉がある。すべてのものはつながっている (ワンネス)と言う考え方である。 人はそれぞれ、学びや理解のタイミングが異なる。誰かを無理に導くことはできないが、知識を共有することはできる。それがピースメイキングの目的である。 すべてのものには二面性がある。両方がちょうど良いバランスをとることが大切。ネガティブな力に出会ったときは、恐れてはいけない。その力を知り、影響力を知り、限界を知り、克服方法(バランスをとること)を知ること。そうすれば、ネガティブな力をコントロールし、制することができる。 私達の成長過程には、黒、青、黄、白という4つの段階を経ていく。 黒 - 物事を開始した直後には、いろんな要素によって混乱が生じる。試行錯誤を繰り返しながら、方向性を見極める。 青 -失敗をたくさん経験する。例えば、幼い子供に「ストーブに近づくな」と注意しても、子供は実際にストーブに触って熱さ(痛さ)を経験するまでは、どうしてストーブに近づいてはいけないのかという本当の理由が分からない。一旦経験すると、失敗から学習するのでもう二度とストーブに近づいたりはしない。人生の中で、失敗を経験するのも良いことだ。失敗を客観的に観察し、分析し、次のステップのための材料として使えば良い。 黄 - 自分1人で考えていては、どうしても主観的になりがちになる。そこで、他の人に相談して、客観的な意見を仰ぐのも一つの手になる。話し合いによって、方向性がくっきりと見えるようになることがある。 白 - これまで積み上げてきたもの、蒔いてきた種が実り、収穫の時期を迎える。素直に心を開いて、もらう、受け取る楽しみを満喫する。 この4つの段階の中で、時には黒と青を行ったり来たりすることがある。しかし、そういった失敗や試行錯誤を繰り返したからダメだということではなく、苦労を重ねた分、最後の収穫が大きいと考える。 白の段階まで行けば、その4つの段階で得た経験・知識を元に、さらに上級の物事に挑戦する。そうやって、知識のレベルを上げながら、人生の輪(段階)はずっと続いていく。 私達の祖先は、彼ら自身の人生における経験や知識を、歌や祈り、神話の中に盛り込んでくれている。迷ったときは一旦立ち止まって、祖先の残してくれた道案内を熟考してみるのも良いだろう。これらは私達の人生の旅における貴重なデータベースなのだ。 経験は知識になる。経験は自分のことを助けてくれる。また、その経験を他人と共有することによって、他人の成長を助けてあげることもできる。 アメリカの裁判制度は、白黒をはっきりつける、勝敗をつけることが目的だが、ナバホのピースメイキングでは問題が起こった原因・理由に焦点を当てている。表面だけを見ていると、同じ失敗を何度も繰り返すことになるからだ。原因・理由を正しく見極め、問題解決のための糸口を見つけることが大切。ピースメイキングセッションでは、臨機応変にセレモニーを実施し、スピリット達の助けを請うことがある。 ピースメイキングセッションでは、円を描くように座る。そうすることによって、対立を避け、人々が安心して意見を述べられる環境を作る。話し合いを続けていくうちに、当事者、参加者、ピースメイカー自身も癒されていく。大切なのは、参加者全員が意見を言える機会を設けること。 ・ピースメイキングとは平和的な存在を確立するための方法であり、プロセスである。 ・ネガティブなエネルギーの正体を知り、それを癒すことによって調和が生まれる。 ・調和を生み出すためには、ネガティブなエネルギーが必要。だから、ネガティブなエネルギーをいたずらに怖がる必要はない。調和を生み出すプロセスの始まりなのだと思えば良い。
「ナバホ神話」 ナバホ情報
ナバホの創世神話の中で、Dine (ナバホの人々)はHoly People によって生きる術を伝授された。その中には、自然や母なる大地に生きるすべての生き物とともに生きる、Ke として知られている周囲の環境と調和して生きるための教えも含まれる。 Dine が住むべき場所は、Dine bikeyah (Navajoland)として知られている、4つの聖山に囲まれた土地だ。4つの聖山とは、 東に位置するブランカ山 この山が象徴するものは、白、日の出、人生の始まり(誕生)、 hozho (調和)の始まり、春、浄化、白い貝殻。 南に位置するテイラー山 この山が象徴するものは、青、日中、人生の青年期、夏。ターコイズ。 西に位置するサンフランシスコピーク この山が象徴するものは、黄色、人生の成熟期、秋、アワビ石。 北に位置するテイラー山 この山が象徴するものは、黒、人生の老人期、冬、ジェットストーン。 こうして人生の輪が完成する。 4という数字は、ナバホ哲学に浸透している。4つの方向、4つの聖山、4つの色、最初に作られた4つのクランなどは、必ず関連している。ナバホのセレモニーでは4つ、あるいは4の倍数の数の歌が用いられる。 神話の中で、「白い貝殻の女」が「太陽」との間に双子の男の子を授かる。双子の男の子達が父である「太陽」に会いに行ったとき、父は息子達にあらゆる試練を与え、それらのテストに合格するかどうかを見極めた。男の子達はすべてのテストに合格したので、太陽はやっと彼らを自分の息子達だと認め、神聖な道具を与えた。 この神話が教えているメッセージは 「何かを進めるためには、まずあらゆる試練を乗り越え、テストに合格しなければならない」 ということだ。
「ナバホコードトーカー」 ナバホ情報
第二次世界大戦中、日本軍はアメリカ軍の暗号をすべて解読してしまった。そこで、ナバホ語を使って暗号を作るという案が出された。 ナバホ語は複雑で、しかも文字化されていなかったので、日本軍は最後までこの暗号を解読することができなかった。 最初に29名のナバホの志願者が集められ、この志願者達の助けを借りて、ナバホ語の単語が軍用語に関連付けられた。 ナバホコードトーカーの全体数は400人ほどだった。彼らはとても大事にされ、1人ずつにボディガードをつけられた。 しかし、ナバホコードトーカーによる戦争への多大な貢献は、1969年まで公式に発表されなかった。戦後25年が経過していた。 1982年、レーガン大統領は、8月14日をナバホコードトーカーの日とすることを決定した。
