ナバホの伝統的な生活を守っている人々は、今も羊の放牧をしている。ナバホの生活といえば羊なくして語れない。 「ナバホグランパ」は現在、13頭の羊を所有している。 以前は250頭以上いたらしいが、徐々に数を減らさざるを得なくなった。 80歳を越えた 「ナバホグランパ」には、もう250頭もの羊の世話はできなくなってしまったのだ。 毎年、夏が始まる前に羊の毛を刈ってやらなければいけない。 この時期になると「ナバホグランパ」と「ナバホグランマ」は憂鬱になる。 羊の毛刈りは肉体労働である。年老いた二人には不可能なのだ。 そこで毎年、知人に頼んで毛刈りをしてもらう。 報酬の相場は、一頭につき5ドル前後 (但し、これは2000年頃の情報なので、現在では10ドル前後になっているらしい)。 ナバホ国では伝統的な暮らしをしている人が少なくなったので、毛刈りが出来る人の数も減ってきた。 グランマとグランパは友人や知人を訪ね歩いたのだが、毛を刈ってくれる人を見つけることが出来なかった。 そのとき既に、5月の中旬になっていた。 ナバホ国は砂漠地帯。 日に日に暑さが増してくる。 羊は暑さに弱いため、毛を刈り取ってやらなければ体力が弱って死んでしまう。 そうしてその年は、私達、「ナバホ父」「ナバホ母」「ナバホ弟B」 と私の4人で毛刈りを行うことになった。 「ナバホ弟B」 は明らかに嫌そうだった。「羊の毛刈りは重労働だぜ。それにシャワーを浴びても羊の匂いが体に染み付いてしまうんだ」 私が羊の毛刈りをしたのはこれが最初だったのだが、かなりの重労働だった。羊を捕まえて両足を紐で縛る。 羊は臆病なので、毛を刈っているだけなのに怖がって暴れまくる。 「ナバホ父」が毛を刈り、残りの3人が羊の足をしっかりと抑えるという役割になった。 羊の暴れ具合にもよるが、一頭辺り30分程度。 炎天下の元での作業なので、疲れが倍増する。 特に一頭だけ、最初から最後まで暴れまくっていた羊がいた。 私達は4人ともこの羊に全身を蹴られた。 「ナバホ父」は罰としてその羊を「モホーク刈り」にした。 今、この羊は「モホークシープ」と呼ばれており、砂漠の猛暑をこのぼさぼさ頭ですごしている。
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「自己防衛策」 ナバホ体験記
犬に噛まれた騒動の後、ナバホグランマが鉄製の杖を私に買ってくれた。 「この杖を肌身離さず持ち歩きなさい。今度犬に噛まれそうになったら、この杖で戦うんだよ」 グランマはこの杖を武器として使え、と言っているのだ。 しばらくの間はグランマの言いつけを守って、何処へ行くにもこの杖を持ち歩いた。友人宅を訪ねる時も、食事に出かける時も、オフィスへ行く時も…。 夜も杖を体の横において、一緒に眠った。 家族や友人達はこの杖のことを、「ジャパニーズ・サムライ・ソード」と呼んでいた。 杖を持ち歩くのが面倒くさくなった頃、「ナバホ弟B」に身を守る手段は他に無いかと聞いてみた。 「犬が吠えて攻撃姿勢を見せた時は、石を投げれば良いよ。 自分はお前より強いんだっていう姿勢を見せれば、犬はそれ以上攻撃してこないからね」 私に向かって吠える嫌な犬がいたので、試しに石を投げて威嚇してみると、効果覿面だった。 それ以来、犬になめられないように、石を投げて攻撃するようになった。 先日、日本人のグループがうちに遊びに来てくれた。 犬が私達に向かって吠え掛かってきたので、石を投げて威嚇してやった。その姿を見ていた日本人のお客さんはびっくりしていた。 普段おとなしい私が、犬に向かって血相を変えて石を投げている姿が、怖かったらしい。 変なヤツだと思われても仕方が無い。けれどこれは、ナバホ保留地で無事に生きていく為に必要な自己防衛策なのである。
「野良犬問題」 ナバホ体験記
犬に噛まれてERへ行った翌日は、ナバホ警察へ出頭しなければならなかった。 ここで、保留地内の野良犬事情を、簡単に説明しておきたい。 保留地内には野良犬が多い。この背景にはナバホの人々の貧しさがある。保留地内には十分な仕事がない。なんでも保留地内の失業率は70%だとか…。 自分達が食べていくだけで精一杯なのだから、犬や猫を去勢・避妊手術してやるという余裕などない。 手術にも金がかかるからだ。 犬猫が子供を産むと、エサをやる費用を浮かす為、こっそりどこかに捨てる。 そうやって、野良犬や野良猫の数が、どんどんと増えていくのである。 保留地内では野良犬に噛まれるという事件が続出している。そこでナバホ警察はある法律を定めた。犬に噛まれたら警察に報告すること。どの場所でどんな犬だったのかを詳しく報告しなければならない。それを元に警察はその犯人犬を見付けて射殺するのである。 この法律は、病院側にも徹底通知されている。患者が「警察に報告しました」或いは「治療後、直ちに警察に報告いたします」 と書類にサインをするまでは、治療を施してはいけないのだ。 私の調書をとってくれた担当婦警さんは、とても親切な人だった。自分の娘も犬に噛まれて大変な目にあった。あなたの仇はきっと討つからね、などと言ってくれた。 犯人犬の姿を事細かに説明して欲しいといわれたが、実はあまり覚えていない。体長、体重、毛の色、種類、顔の特徴(目の色など)を、質問されたが、あいまいな返事しか出来なかった。 あれから幾年もの月日が流れた。 果たして警察は、無事に私の仇を討ってくれたのだろうか?
「ER 犬に噛まれる騒動」 ナバホ体験記
私がまだナバホに通い始めて間もない頃、ナバホ家族全員の目の前で犬に噛まれたことがある。 犬に噛まれるなんて想像もしていなかった。でもこちらのミスなのである。私はナバホ犬をあなどっていた。全くの無防備だったのだ。 噛まれたのは左のふくらはぎ。数日すれば徐々によくなるだろうと事態を甘く見ていた。しかし容態は良くなるどころか悪化していく一方。微熱が続き、頭痛、吐き気に悩まされた。それでもまだ楽観的に考えていた。 事件から3週間ほどたったある日。ナバホグランパがやたらと 「手遅れになる前に、病院へ行け」 と言い続けた。その時まで気が付かなかったのだが、左右のふくらはぎの太さがまるで違っていた。 さすがに私も怖くなって、病院へ行くことに決めた。 その時点で夕方5時を回っていた。近くの病院で順番を待ってみるが、一向に名前を呼んでもらえない。数時間待った後受け付けに問い合わせると、大きな交通事故が発生したので医者、看護婦共、てんやわんやの大騒ぎ、一般患者は後回しにしている、とのこと。 そこで保留地外の大病院へ行くことにした。病院に着いたのは夜11時を回ってしまったので、ER患者となってしまった。 最初に簡単な検査があって、それから患者の権利についての法律上の説明と書類にサイン。事務手続きが終わってからようやく診断。 白人男性の医者がこう言った。「ずっと病院での治療をしなかったら、足を切断することになってたぞ。」単なる脅しだったのかもしれないが、医者の表情は至ってマジメだった。 2週間薬を飲み続け、ようやく私のふくらはぎは通常の太さに戻った。あのときグランパが病院に行けって言ってくれなかったら、大変なことになってたかも・・・。 グランパ、ありがとう!!
「ナバホの人達の宗教観」 ナバホ体験記
ナバホの人達の宗教観は大きく分けて4つに分類される。 1 ナバホの伝統的な教えを守っている人(ナバホ神話に基づく) 2 ネイティブ・アメリカン・チャーチ(NAC)を信仰している人 3 白人と同じキリスト教を信仰している人 4 無神論者 私が今研究しているのはナバホの伝統的な教え。ここで簡単にナバホ神話とはどういうものか、説明しておきたい。 ナバホに伝わる神話によると、ナバホはこれまで4つの世界を経てきたとされている。 第一の世界は「黒」の世界。 第二の世界は「青」の世界。 第三の世界は「黄」の世界。 第四の世界は「白」の世界。 ナバホ神話によると、第三の世界までの人間は現在のような姿カタチを持っていなかった。男性女性を区別しているのは概念だけ。「昆虫人間」「鳥人間」「動物人間」という段階を経て現在のような「人間」へと進化したとされている。 現在私達が暮らしているこの世界は「第四の世界」。 さらにこの上にも世界があって、そこではまた概念だけの存在になると信じているメディシン・マンがいる。人類のスピリットレベルが向上した時、人類は一つになり、スピリットだけの世界になるというのだ。そこでは時間も姿カタチも距離も存在しない。望むコトは何でも叶う。愛に満ち溢れた世界なのだそうだ。
「初めてのナバホ国訪問」 ナバホ体験記
幼い頃から、アメリカインディアンに興味があった。いつも浮かぶのは、ナバホ族とアパッチ族。いつか彼らの土地に行ってみたいと思っていた。 私が初めてナバホの土地に立ったのは1998年冬のこと。あの時のことは生涯決して忘れることが無いだろう。 ナバホ国の首都、ウィンドウロックに行った時、自然に涙が頬を伝って流れ落ちた。懐かしくてたまらない。この地を知っている、過去生で何度もこの地に住んでいた、と感じた。 ナバホでの初日、あるナバホ男性が声を掛けてくれた。 この男性とは初対面だったのだが、ずっと前から知っているような気がした。 この人が私の過去性で何度も私の父親だったと感じた。 それ以降、私はこの男性を 「父」 と呼び、彼は私のことを「娘」と呼ぶようになった。 彼との出会いが私の人生を大きく変えることになる。 そして、私はこの出会いを導いてくれたスピリットに、とても感謝している。 そういった訳で今、私にはナバホの家族がいる。 今後このブログ内では「ナバホ父」「ナバホ母」「ナバホ弟A」「ナバホ弟B」「ナバホグランマ」「ナバホグランパ」と呼ぶことにする。
「父の本当の強さ」子供時代
一つ前の話の中で、私達一家にある事件が起きたことを書いた。その事件から、父が私達きょうだいに教えてくれた大切な教えを、ここに記しておきたい。 ********** 私達きょうだいが中学生くらいになるまで、私達一家は父の親友の一家と交流が深かった。 父の親友のおじさん一家には、私達きょうだいと同じくらいの年齢の男の子が3人いた。 毎年夏には合同家族旅行に行き、お正月には合同新年会をした。 これらの行事は毎年恒例のもので、私達はみんなこの行事を楽しみにしていた。 私は、特にその3人兄弟の真ん中の男の子と仲が良くて、文通をしていた。 しかし、ある年を境にして、その恒例の行事はなくなってしまった。 合同家族旅行もお正月の食事会もなくなったのだ。 私の文通相手からも、手紙の返事が来なくなった。 突然のことだったので、訳が分からなかったし、悲しかった。両親に理由を聞いても、両親は何も答えてくれなかった。 ********* この恒例の行事が突然無くなった理由、そして私達一家が突然貧乏になった理由は、私が成人して随分年月が経ってからようやく、母が教えてくれた。 父の親友のおじさんも、父と同じく会社を経営していた。 おじさんの会社はうまく回らなくなり、多額の借金をすることになった。 父は長年の親友だったので、おじさんが父に借金の保証人になってくれるよう頼んだときに断れなかった。 おじさん達一家は、ある日家族一家で夜逃げをした。 父はおじさん達がそこまで困っていたことを、知らなかった。 突然この一家が夜逃げをしてしまったせいで、借金の返済は保証人である父が支払わなければならなくなった。 借金の肩代わりをしなければならなくなったと金融機関から父に連絡が入った日、父は真っ青な顔をして帰宅した。 私達きょうだいが寝静まった後、父は母に事情を話した。 そして両親は、子供達にはこのことを話さないでおこうと決めたのだそうだ。 その話をずっと後になって聞いたとき、私は父に 「どうして私達に話してくれなかったの?」 と聞いた。 すると父は、「お前達に心配させたくなかった。 子供の時代はあっという間に終わってしまうものなんだよ。 だから子供は何も心配せずにすくすくと育ち、大いに遊び、大いに勉強することが仕事なんだよ。 お金の心配をするのは、親である私達両親の仕事なんだ。 だからお前達には言わなかった」 と言った。 そして、こう付け加えた。 「お父さんは X X さんの会社の下請けさんが集まる会に出席したんだよ。 日本刀を持って X X さんに掴みかかっている人もいた。 みんなすごい剣幕で X X さんに詰め寄っていった。 その場で X X さんが殺されてしまうんじゃないかと思うくらいの修羅場だった。 その日本刀を持ってきた人にも、養うべき社員がいて家族がいたんだろうね。 その場にいた人達は、みんな必死だった。 その修羅場に立ち会ったとき、お父さんは思ったんだよ。 経営者はどんなことがあっても、最後の最後まであきらめてはいけないし、自分には養うべき家族と社員がいるってことを肝に銘じておかなければいけないんだってね。 あの一件から、お父さんは大切な教えを学ばせてもらった」 私は父に、素朴な疑問を問いかけた。 「お父さんとお母さんは、XContinue reading “「父の本当の強さ」子供時代”
「反抗期」子供時代
中学生の頃、私は反抗期に入っていた。 母のやることなすことすべてが嫌いになった。 母が作ってくれた料理を「まずい」と言って文句を言い、母が一緒に出かけようと誘ってくれても「お母さんと出かけるのは恥ずかしいから嫌だ」と断る。 母の見ていないところでご飯を食べ、ご飯を食べ終わるとさっさと自分の部屋に行って扉をぴしゃりと閉じる。 そんな毎日を過ごしていた。 そんなある日、私は体育の授業のときに足を捻挫した。 先生はすぐに母親に電話を入れ、母は学校まで私を迎えに来てくれた。 当時の私達一家は、お世辞にも裕福だったとは言えない。 父は私が3歳の頃に起業して会社を経営していたのだが、ある事件があって私達一家は節約の日々を送っていたのだ。 その頃の私は、新しい服や靴を思い通りに買ってもらえず、同級生が新しい服や靴を持っていることが羨ましくて仕方がなかった。 「お父さんは社長なのに、どうしてお金持ちじゃないの?」 と私が聞くと、「うちは社長だからこそ、節約しなければいけない。社員とその家族の皆さんの生活を守らなくてはいけないから」 と父が返す。 その少し前にある事件があったことを、両親は私達に教えてくれていなかったので、父のこの説明では納得がいかなかった。 母と一緒に外出するのが恥ずかしかった理由は、私達が貧乏だったことにもある。 母は毎日ほぼ同じようなヘンな服を着ており、おしゃれに着飾ることもなかった。 学校まで私をわざわざ迎えに来てくれた母は、いつものようにヘンな服を着ていた。先生から電話をもらって、大急ぎで走ってきたのだろう。髪もぼさぼさのままだったし、化粧もしていなかった。 せっかく来てくれた母に向かって私はこう言った。「来てくれなくても良かったのに。 先生とか同級生にお母さんのこと見られるのが恥ずかしい」。 母はとても悲しそうな表情をしたが、何も言い返してこなかった。 黙って私の前に座り、私をおぶってくれた。 私は中学生とは言え、体つきは既に母と同じくらいの背丈になっていたので、私をおぶって歩くことはすごく苦痛だっただろうと思う。 でも母は何も言わず、右手に自分のかばん、左手に私の教科書が入った重いかばん、背中には母と同じくらいの体重の私をおぶって黙々と歩いた。 私達の実家から私が通っていた中学校までは、大人の足でも徒歩で30分以上はかかった。 母は車の免許証も持っていないし、もちろん自分の車も持っていない。 「なんで歩くの? タクシーに乗ろうよ」と私がせがんでも、母は何も言わなかった。 今考えてみると、当時の母にタクシーに乗るという贅沢はできなかったのだろう。 それに、今私は当時の母と同じくらいの年齢になったが、あのとき母が私にしてくれたように自分と同じ体重の人をおぶって30分も歩けるだろうか? 絶対に無理だ。 母だからこそできる、最大級の優しさであり、愛情だったのだと思う。 今でも、あのときの母のことを考えると、涙が出る。 あの時私は母に素直にありがとうと言えなかった。本当は大急ぎで迎えに来てくれたこと、家までの長い道のりをおぶってくれたことが嬉しかったのに・・・。 お母さん、いつも最大級の愛情をくれてありがとう。 お母さんの愛情、絶対に忘れないよ。 あの日のことを、私は絶対に忘れない。
「夫婦のことは夫婦にしか分からない」子供時代
私の両親はとても仲が良い。父は決して寡黙なタイプではないが、母と一緒にいる時だけは寡黙になる。ならざるを得ない、と言うべきかもしれない。 両親の会話はほとんど母のワンマンショーだ。母が9割をしゃべっている。ピーチクパーチク、ピーチクパーチク。所々で父がつっこみを入れる。そのやりとりは非常に面白い。何とも言えない絶妙なタイミングであり、バランスなのだ。 以前、私は母と口ゲンカをしたことがあった。私は母を傷付けるようなことを言い、母を泣かした。一部始終を見ていた父は、私に向かってこう言った。 「お母さんを傷付ける者は許さない。例え娘であってもだ……。」 今度は私が泣き出した。父が味方してくれなかったことが悲しかったからではない。父がそんなにまで母を愛しているのだと分かったこと、それを私の前ではっきりと口に出して言ってくれたことに、感動して泣いたのだ。両親の仲が良いということは、素直に嬉しいものだ。 人は一人では生きてはいけない。「割れ鍋に綴じ蓋」 と言葉があったっけ。うちの両親はまさに字のごとく、二人でしっかりと支えあっている。何だかんだとケンカをしながらも、ぴったりくっついて生きている。 母は晩年、私によくこんな言葉を言っていた。「夫婦のことは夫婦にしか分からない。」傍目には仲良そうに見えたり、あるいは、悪そうに見えたり、と色々な見方がある。けれども、長年一緒に、家族というユニットを形成してきた土台である夫婦には、他人からは決して理解できない絆があるということを言いたかったんだろう。
「初めての海外旅行 シンガポール」子供時代
初めての海外旅行は15歳の時。家族でシンガポールへ行く事になった。 正直言って、私は乗り気では無かった。何と言っても、外国は未知の世界。恐ろしい所に違いない。家族がいそいそと旅の支度をしている傍らで、私が準備したものは遺書だった。「遺書を書いておかなければ・・・」 と思った。飛行機が落ちたら家族は全員死ぬことになる。だから、遺書は叔母に宛てて書いた。 遺書の内容はもっぱらお願い事だった。私達にもしものことがあれば、インコのピーちゃんの世話をお願いしますだの、私の日記は絶対に読まずに燃やして処分して下さいだの、そういったたわいも無い事ばかり。けれども本人は至って真剣だった。「私の貯金は全部おばちゃんにあげます」と締めくくった。 父は自由旅行が好きな人で、ツアーに入るのを嫌う。その時も航空券とホテルの予約しか取っていなかったので、ホテルまではタクシーで行くことになった。 空港からホテルまではタクシーを使った。父からは車で20分位だと聞いていたのに、1時間以上経ってもまだホテルに着かない。怖くてたまらなかった。冷静な今となっては、タクシー運転手が料金をぼったくる為に車をぐるぐると回していただけなのだろうが、当時はそんなことは分かるはずも無い。 ホテルの部屋に着くと、私は泣きじゃくった。”帰ろう、帰ろう”、と言って両親を困らせた。気が付くと全身を掻きむしっていた。全身じんましんが出たのだ。困り果てた両親は、私にある錠剤を二粒くれた。それを飲むと私は急激な睡魔に襲われ、気が付くと朝になっていた。 その時には、全身じんましんはすっかり消えていた。後にも先にも、全身じんましんが出たのはその一回だけ。 何年も経ってから、ずっと気になっていたことを母に聞いた。”私の家族は誰もじんましん体質では無いのに、どうしてあの時母はじんましんの薬を持っていたのか?” 母はすましてこう言った。「じんましんの薬じゃないよ。下痢止めか何かだと思うけど。もう覚えていないわよ」
