13.笑いは最高の薬、ラコタツアー

落馬した女性の診察も無事終わり、いよいよ病室を出ようとしたとき、面白いことがあった。

”面白い” と言うと怒られてしまうかもしれないが、私達の目の前を重病患者の男性が通り過ぎたのだ。アメリカの病院は何でも大げさにやるという点を考慮に入れると、実際にはそれほど重態ではなかったと思う。しかし、本当にものすごい重病患者に見えた。

その患者は鼻の穴と腕に管を通されており、患者の周囲には左右2人ずつの人間が付き添っている。右前に医者、左前に看護婦、右後ろと左後ろには親族。その後ろにはさらに4人の親族が、後をついていく。患者は少し背の高めのリクライニング・ベッドの上で、神妙な面持ちだ。

ラコタ兄が思わずこう言った。

「すごいな。ファーストクラスよりもゴージャスだぜ」

ボスと私は思わず吹き出してしまった。安心したことに、患者自身も鼻に管を通した状態で何とか笑顔を作り、私達に右手を上げてくれた。医者も看護婦もこらえきれず、笑い始めた。(親族だけは笑っていなかったが…)

ひとしきり大声で笑うと、何だか気持ちがすっきりしてきた。ラコタ兄がこう言った。

「君に笑顔を取り戻すことができて、良かった。笑いは、何よりも効果的なメディスンになるからね。 (Laughter is the best medicine.) 」

それから私達は車に乗り込み、ラコタ兄の家に向かった。ラコタ兄が運転して、ボスが助手席、私と 女性客が後部座席に座った。家までは1時間半ほどのドライブだったが、時間は全く感じなかった。というのも、私達は順番に冗談や面白い話をしまくり、大声でゲラゲラ笑い続けていたからだ。中にはイマイチなジョークもあったが、私達はともかくどんなものであれ、大声で笑った。

ラコタ兄が言ったことは本当だ。笑いは最高のメディスンなんだ、と実感した。

ラコタ兄、ボス。 ベスト・メディスンをどうもありがとうございました。あなた達が病院の待合室に帰ってきてくれた時、本当に心強く感じました!

12.ER ラコタツアー 

シャイアン・リバー・スー部族両院に到着し、落馬した女性を診察室に連れて行った。

医者がやってきて、問診を行う。医者の質問の中で、いくつか意味が不明な単語があったので、それを何度か聞き直す、ということをした。

そのことが、女性客を不安にさせてしまう原因になったのだと思う。きっと悪気は全く無かったのだろうが、女性は私にこう言った。

「私は英語が話せるし、アメリカの病院に来た事もあるの。だから、そばにいてくれなくても良いわよ」

その言葉が、とてもショックだった。 “あなたの助けなんていらない!”  そんな風に聞こえた。思わず、後ずさりした。病室から走って出て行ってしまいたい心境だった。しかし、ボスも医者も、私にそうさせなかった。「患者がパニックになる恐れだってある。だから、何と言われようが、彼女のそばについていてあげなさい」 と。

医者の問診が終わると、レントゲンを撮ることになった。病室とレントゲン室は少し離れている。レントゲン技師が、女性を乗せた車椅子を押してレントゲン室まで移動する間、私は肩を落としてついていった。 “あなたの助けなんていらないわよ”  そんな風な言葉が、頭の中でグルグルと回る。

レントゲン室では、結構長い時間待たされた。女性客と2人っきりの時間が、とても長く感じた。

女性はこう言った。

「レントゲンを取る間は、外に出ていた方が良いわよ。あなたはまだ若いから将来子供を身ごもることになるでしょう。 出来る限り、レントゲンの放射能を浴びない方が良いと思うの」

彼女は本当に私の体を心配して、こう言ってくれたのだと思う。 そこで私は、レントゲン室の外で待つ事にした。

たかがレントゲンなのに、とても長い時間掛かった。 あまりにも長いので心配になり、中に入ろうとした。 しかし、中から鍵が掛かっていて、入れなかった。

やっとレントゲン技師が、部屋から出てきた。彼女は先程よりもさらに顔色が悪くなり、げっそりしている。

中で一体何があったのだろう? レントゲンを取るだけで、これほど体力が消耗するものなのか? 

私はレントゲン技師に聞いた。

「レントゲンを撮るだけなのに、どうしてこんなに時間が掛かったんですか?」

すると、レントゲン技師は薄ら笑いを浮かべて、こう答えた。

「いやぁ、4枚取ったんだけど、使えないものばかりだったんで、最後の1枚でやっと使える写真が撮れたんだよね」

何だって? お前のせいで、こんなに時間が掛かって言うのか? それにお前、何でへらへら笑ってるんだよ?

女性によると、レントゲンを撮るためにはベッドに上がらなければならず、そのベッドが高い位置だったから上がるまでに苦労した、のだとか。

「あいつ、全然手を貸してくれなかったの?」

と私が聞くと、女性は黙ってうなづいた。

何てヤツなんだ? 怒鳴りたい気持ちが込み上げてきたが、まだ彼女の治療は終わっていない。私がここで怒鳴った所で、どうにもならないことは分かっていた。

病室に戻って、レントゲン技師が医者にレントゲン写真を手渡した。医者はそれに一瞬目をやり、それから妙な表情をして、女性客の元にやってきた。

「あなたが怪我したのは、右足ですよね? 彼が撮ったのは左足のレントゲン写真だったんです。これじゃダメだ。レントゲンを撮り直します。」

レントゲン技師がまた半笑いの表情で、こちらにやってきた。私は精一杯怒りを抑えて、レントゲン技師にこう言った。

「彼女は全身打撲で、ちょっと体を動かすだけでも大変なんです。それを分かってあげて下さい」

それに対して、アホのレントゲン技師はこんな返答をした。

「彼女が痛みを感じていようがいまいが、俺には全く関係ない。レントゲンの撮り直しも、俺は全く気にしない。俺はちっとも構わない」

私の全身を、熱い血が駆け巡っていった。私はレントゲン技師に対して、激怒していた。よっぽど何か言ってやろうかと思ったが、とにかくまだ治療の途中なのだ。私が怒鳴る事によって大変な目に遭うのは、私ではなく 彼女なのだ。そう思って、怒りを飲み込み、何も言わないでおいた。

そうは言っても、私が怒っていることは明らかだったので、レントゲン技師はこんなことを聞いてきた。

「俺の事を訴えたりしないよな? 俺は俺なりに仕事をまっとうしてるんだ。君が俺を訴える事なんて出来ないぜ」

誰も一言も、訴えるなどと言っていない。第一、私はあれから何も言っていないのだ。さすが、アメリカの病院のスタッフだ。患者に訴えられるということを、最も恐れているのだろう。

***************

それから 女性客はレントゲンの撮り直しを終え、また病室に戻った。いろんなことが起こって、やりきれない気持ちだった。彼女が病室で医者を待っている間、私は待合室で待つ事にした。

その時ボスは、その場にいなかった。ラコタ兄と一緒に、私達の食べ物を買いに行ってくれていたのだ。

一刻も早く、ボスとラコタ兄に会いたかった。私一人では、不安でたまらなかったのだ。

ようやく、ボスとラコタ兄が待合室に戻ってきた。私は、ボスが買ってきてくれたハンバーガーをほおばった。空腹なのに、ちっとも美味しく感じない。無理やり流し込んでいるという感じだった。

ボスが私に 「おい、大丈夫か?」 と聞いた。ボスの目は、彼が私の気持ちをすべて感じ取ってくれていることを物語っている。不覚にも、私は泣き出した。 それから、ポツリポツリと、私は心の中を吐き出していった。

女性客から 「そばにいてくれなくても良い」 と言われて、落ち込んだということ。 彼女が私を信用してくれていないのが悲しいということ。 それが、私の実力不足から来ていることを、充分分かっている。 そのことが悔しいのだということ。 アホなレントゲン技師のこと。 レントゲン室から出てきた 女性客が、とてもやつれてげっそりしていたこと。 一人で待っている間、とても不安だったということ。

ボスとラコタ兄は、私の背中をさすってくれた。その手がふんわりと優しくて、私はほっとした。

病室の中へは、ボスとラコタ兄も一緒に入ってくれることになった。

そこから先は、とても心強かった。撮り直しのレントゲン写真の結果、骨折はしていないことが判明。アメリカの病院にはシップ薬がないので、アイスノンを2つほどもらった。それと、痛み止めの薬をもらった。

やっと終わった。病院で診てもらえて、私達はみんな、ほっとした。

************** ちなみに… 後日談だが、 落馬した女性は帰国してから日本の病院で診てもらったらしい。肋骨が折れていたそうで、全治一ヶ月だと言われたそうだ。そう言えば、アメリカの病院では、足のレントゲンしか撮らず、胸のレントゲンは撮っていなかった。普通、落馬したとなると、当然胸のレントゲンを撮るべきなのに…。でもその時は、胸のレントゲンのことなど全く思いつかなかった…。

11.信頼 ラコタツアー 

乗馬を終えて、ラコタ兄の従兄弟の家に戻った。落馬した女性は少し眠ったそうだ。容態が良くなったようには見えない。立ち上がるとひどい頭痛がすると言って、女性は吐いた。

やはり、病院で手当てを受けた方が良い。そこで、女性を病院に連れて行くことにした。

病院までは車で一時間半ほど。私と年配の女性2人組と共に、ピックアップトラックの荷台に乗った。

私はこの2人の体調が心配だった。今回のツアーは実にハードだ。飛行機を3本も乗り換えてラピッドシティまでやって来て、休む間もなく連日あちこち出かけていたからだ。

2人は私の母と同じ位の年齢だった。 疲れていないはずがない。 それなのに、この2人はいつもパワフルで、周囲に気を配ってくれている。 私達が乗馬ツアーに出掛けた後にも、落馬した女性を起こさないように気遣いつつ、様子を見てくれていたらしい。

「お2人とも、体調は大丈夫ですか?」 と私は2人に尋ねた。

「大丈夫だよ。この旅行に来る前に、2人で固い約束をしたのよ。 絶対に無理はしないって。 だからなるべく早めに寝るようにしてるし、体調には気を付けてる」 2人はそう言ってくれた。

私は将来、今ボスがやっているようなツアーを組んで、お客さんにナバホ国を案内したいと考えている。 でも、今日の落馬事故を体験して、やっぱりまだまだ先になるな、と感じていた。 お客さんを連れて行くだけなら、誰にだってできる。 でもいざと言うとき、何かあったときに、対処できるのかと聞かれると、私にはまだまだ実力も自信もない。

2人はこんな話をしてくれた。

「私達はボスと長い付き合いをしているの。 その中で、確実な信頼関係を築き上げる事が出来た。 このツアーに参加しようと決めたのも、ボスを信用しているからよ。 だって、そうでしょ? アメリカ・インディアン保留地に行くツアー、つまりどんな所なのか全く分からないところへ連れて行かれる訳じゃない? 信頼関係が無かったら、絶対お客さんは来ないわよ」

確かにそうだ。 ラコタ兄の家では、シャワーは使えないし、トイレも屋外のものを使う。 ちょっとした買い物に行くまでに、数時間車を運転しなければならない場所なのだ。そういうツアーに参加してくれるというのは、勇気のいる事だと思う。

2人はこう付け足してくれた。「いずれ、あなたがナバホ・ツアーを組むなら、私達は是非参加させてもらうわよ。それまでに、いろんな人達とも、しっかりした人間関係を築いておきなよ」

2人の言葉が胸に染み込んでいった。そうしよう。今回のツアーで、ボスからたくさん学ばせてもらおう。人間関係のしっかりした絆の結び方を、学ばせてもらおう。

お二人とも、良いお話をどうもありがとうございました。

10.乗馬 ラコタツアー 

女性客が落馬してからは、みんな何となく馬を怖がるようになっていた。他の高齢の人達は、ラコタの人に手綱を引いてもらいながらトラックの中を軽く2-3周しただけで、「もう十分満足した」 と言って乗馬を終えた。

私はさっきよりは少し成長していて、ちゃんと仕事をまっとうしていた。お客さんが満遍なく馬に乗れているかどうかに、気を配る事に徹していたのだ。全員が満遍なく馬に乗る機会が与えられている事に、私はほっとしていた。

今度は新しいメンバーの一行が、トラックを出て少し遠出をすることになった。時間的なことを考慮すると、このグループが帰ってきたら今日の乗馬は終わりだろう。私はその時まだ、馬に乗るチャンスが無かった。きっと今回は、このまま乗れないだろう。それでも仕方が無い。今回の主役は、あくまでもお客さん達なのだから…。

少し残念ではあったが、私は自分の立場をちゃんとわきまえていた。それで良いと思った。

第二弾の一行がトラックの外に出たので、私も後ろから小走りでついていった。馬の後ろに立つのは厳禁だと言われていたので、少し距離を空けて、みんなの様子が見渡せるような距離にいた。

その一行の中に、ラコタの女の子がいた。彼女は私に気付いて、声を掛けてくれた。

「歩いてついて来られるような距離じゃないよ。馬を用意してあげるから、馬でついて来なよ」

「私のことは良いよ。馬に乗る機会はまたあるだろうしね。心配してくれてありがとうね」 と私は返答した。

それでも彼女は、こう言ってくれた。

「通訳だって、楽しむ権利はあるよ。私の馬を貸してあげるから、一緒に行こうよ。良い馬だよ」

私達は、納屋まで戻った。納屋にはもう鞍が残っていない事を、私は知っていた。しかし彼女は、あちこちから鞍やら綱やらをかき集めてくれて、準備をしてくれた。その鞍と綱はボロボロのもので、私は少し不安になったが、この子が一緒にいてくれるから大丈夫だとも感じていた。

彼女の馬はイギという名前。茶毛の牡馬で、人間の年齢に換算すると、40歳くらい。「この子は本当に良い馬だよ。あなたのことをちゃんと守ってくれるから、安心して」 と彼女が言った。

確かにイギは、私の言う事を忠実に聞いてくれた。きっと相性も良かったのだと思う。段々慣れてくると、ギャロップが楽しくなる。イギは私の調子を伺いつつ、軽快にギャロップしている。

ラコタ兄が私にこう言った。「うまいね。君が馬に乗っている姿は、本当に自然体そのものだ。何度も乗った事があるのか?」 そう言うラコタ兄の方こそ、自然体そのものだよ。さすがラコタだ。

私に関しては、私はきっと前世で馬に乗っていたのだと思う。だから初めての乗馬のときから、周囲の人に 「うまいね」 と言われていた。

私の乗馬初体験は、アリゾナ州セドナでの乗馬ツアーの時。もう、8年以上も前のことだ。その時私が乗った馬は、プリティボーイという名前の若い牡馬。名前の通り、とてもきれいな馬だった。プリティボーイは、私のことをしっかり守ってくれた。ギャロップする前や、ちょっと段差がある時には、必ず一旦立ち止まり、後ろを振り返って私の様子を伺うのだ。 「私は大丈夫だよ。さぁ、行こう」 と声を掛けると、プリティボーイは安心して前に進む、という具合だった。

今回のイギも、終始そんな具合だった。

私達の一行は、ラコタ兄、ラコタ兄の従兄弟、ボス、若い男の子、若い女の子、私、ラコタの女の子、ラコタの少年の8人だった。このメンバーはみんな、楽々と馬を乗りこなしていた。その事に安心したラコタ兄の従兄弟は、どんどん先へと進んでいった。

途中、小高い丘で、ワシが2羽見えた。ネイティブアメリカンはワシが大好き。ラコタメンバーは全員ワシの存在に気付き、喜んでいた。

日没が近付くにつれて、馬達に異変が起きた。何やらみんな、急に急ぎ足になった。ラコタ兄の従兄弟が、「馬達はもうすぐ食事の時間だということが分かってるんだ。だから急いで家に帰ろうとしているのさ」 と言った。最初は軽いギャロップだったのが、段々悲壮な感じの走りになってきた。みんな、よっぽど空腹らしい。

こんなこともあった。ボスが乗っていた白馬が、私の目の前で T の馬を後ろ足で蹴った。ものすごい勢いだったので、ビックリした。しかも、一度だけではなく、 何度も。ラコタ兄の従兄弟が、「彼には近寄るな」 と声を掛けると、みんな一斉にボスの馬から離れた。

ラコタの女の子が、ひそひそ声で私にこう言った。「大丈夫だよ。あの白馬が蹴るのは、あの男の子が乗ってる馬だけだから。あいつら犬猿の仲なんだよね。イギの事を蹴ったりはしないから、安心してよ」 それを聞いて、ほっとした。

馬の世界にも、いろいろあるようだ。

9.落馬事故 ラコタツアー 

2006年5月20日。この日は乗馬をすることになっていた。

牧場を持っているラコタ兄の従兄弟の家まで、車で一時間ほど。とても、ワクワクしていた。私は馬が大好きなのだ。

馬に乗る順番は、何となく早いもの勝ちのような雰囲気が漂っていた。一頭づつ馬に鞍を装着して、「この馬は誰が乗る?」 と聞いていくという感じだった。

体の大きな茶毛の馬が鞍を付けている間、私はその馬に見とれていた。きれいな馬だったのだ。

ボスが 「この馬は誰が乗る?」 と聞いたとき、私は勇ましく  「私!!」 と名乗りを上げた。しかし、ボスにあっさりと却下された。「君の順番はもう少し後。僕と君の両方が馬に乗ってしまったら、通訳をする人が残らなくなってしまうだろ?」

しょんぼりと肩を落とす。”そっか。私はスタッフだから、こんな時はお客さんを優先させてあげなきゃいけないんだ…” そうは言っても、ボスは誰よりも先に馬に乗っていたけど…。

結局その馬には、別の女性客が乗る事になった。メンバーの内の半数ほどが馬に乗って、トラックの外に出て行った。

ラコタ兄と私は、馬の群れの後を歩いてついていき、お客さん達を見守る事にした。トラックを出てから、馬の一行は小川の方向に向かって進んでいた。どの馬もゆったりと歩いていて、危険は無さそうだった。

馬の一行は小川を越えて、小さな丘を登ろうとしていた。その時、ある事件が起きた。

1人の女性が、馬から落ちた。私が乗ろうとしていた馬に乗った女性のお客さん。その瞬間の映像は、今も私の脳裏に焼きついている。

上り坂に差し掛かって、馬の足取りが急にギャロップになった。その瞬間、女性の体が馬から離れ、背中側から宙に浮いて、地面に落ちた。一瞬の出来事だったのに、スローモーションのように見えた。

次の瞬間、ラコタ兄と私は彼女の元に走り出した。小川の水量は膝くらいまであったのだが、靴を脱ぐこととか、ズボンをたくし上げようなどという考えは、微塵も起こらなかった。とにかく、全速力で彼女の元に走っていった。

ボスとラコタ兄の奥さんが馬に乗った状態で、お客さんに話しかけていた。

ーー大丈夫ですか?ーー

ーー頭を打ちましたか?--

ーーどこか痛い所はありますか?--

落馬した女性が、か細い声で何とか返答している。

ーー頭は打っていない。背中とお尻から落ちたので、そこが痛いーー

こんな時、どうすれば良いんだっけ? 確か、学生時代の保健の授業で、応急処置の方法を習ったはず。えっと、確か…、後続事故の危険がある場合を除いて、患者を動かしてはいけないって習ったっけ…。

そんなことを考えていると、ラコタ兄がこう言った。

「上半身を起こさせるんだ」

エッ? 動かしちゃいけないんじゃないの? でもこの人の職業はカウボーイ。自分も落馬経験があるだろうし、落馬した人の対処法も知っているはずだ。この人が助けてくれる。

「体を起こして、座れますか?」 と私が聞くと、お客さんは 「体が痛すぎてムリ」 だと言う。それでもラコタ兄は、「無理にでも体を起こさせるんだ」 と言い張る。

若い男の子と私の2人で お客さんの体を支えて、体を起こさせた。するとラコタ兄が、「よし、座れるな。今度は立たせてみろ」 と言う。体を動かす度に、お客さんの表情が苦痛でゆがむ。何とか自分の足で立ってもらった後、ラコタ兄は お客さんに片足ずつ動かしてみるようにと言い、それから全身を順番に動かさせた。ラコタ兄が 「どうやら、骨は折れていないようだな」 と言った。

その間に、ラコタ兄の奥さんが急いで車の所へ戻り、ピックアップトラックを運転してその場に戻ってきた。

ラコタ兄が楽々と 落馬した女性の体を担ぎ上げ、ピックアップトラックの助手席に乗せた。お客さんは、ラコタ兄の従兄弟の家に担ぎ込まれた。

ラコタ兄の従兄弟もその奥さんも、のんびりと構えている。「落馬したの? あぁ、そうなの? じゃ、しばらく休んでいけば?」 という感じ。この人たちからすれば、落馬など日常茶飯事なのだろう。

落馬した女性はしばらく家の中で休む事になった。

後でラコタ兄に聞いたのだが、落馬した場合は、頭を打った場合や骨が折れている場合を除いて、すぐに体を動かさなければならないのだそうだ。そうしなければ、筋肉が硬直してしまって、本当に動けなくなってしまうらしい。

それに、ラコタ兄はこんなことも言っていた。

「乗馬には落馬はつきものだ。落馬しても、馬を怖がらずにまた挑戦する。そうすると、次回は 「カウガール」 並みにうまく乗りこなせるのだ…」 と。

8.拡大家族 ラコタツアー 

ラコタの親族関係を言い表す言葉で、tiospaye という語がある。これは 「拡大家族」 という意味だ。

ラコタの親族関係は、一般社会のものと少し異なる。

ちょっとややこしいのだが、説明しておきたい。

ここに、一般的な家族、(父親、母親、子供)がいるとしよう。

日本なら、子供からすれば、父親、母親は一人ずつだ。

しかしラコタでは、父親の兄弟も 「父」で、その子供は 「兄弟姉妹」になる。父親の姉妹は、「叔母」 で、その子供は「従兄弟」になる。

同様に、母親の姉妹も 「母」で、その子供は「兄弟姉妹」となる。母親の兄弟は、「叔父」 で、その子供は「従兄弟」となる。

つまり、「お父さん」「お母さん」と呼べる人が一人きりではなく、「兄弟」「姉妹」と呼べる人も一人きりではないのだ。

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私はこのことを知らなかったので、ラコタ兄にやたらと 「兄弟」「姉妹」 が多いことに驚いていた。後で聞くと、こういうことだったのだ。

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この拡大家族制度は、ラコタ国で今も生きている。このことによって、子供たちはより多くのサポートや愛情を受ける事ができる。

保留地を訪れたことがある人なら誰でも経験していると思うが、保留地の子供たちはとても人懐っこい。それはこの拡大家族という環境で育ったお陰なのだ。この拡大家族の恩恵を受けている子供たちは、大人になってから社会の中やコミュニティの中でも柔軟に対処していく術を身に付けている。

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ちなみに、ラコタ語で 「兄」 は ティーブロ(tibloーー女性から兄を呼ぶ言葉) と言う。私がラコタ兄のことを “ティーブロ” と呼ぶと、ラコタ兄はとても嬉しそうだった。

ここにまた、ラコタの文化背景がある。

ラコタの人々にとっての価値観もまた、一般社会のものとは異なる。

伝統的なラコタにとっての “富” とか “裕福さ” というのは、物質や財産、家畜の数などではなく、「何人、親族と呼べる人がいるか?」 ということによって決まる。 物質、財産、家畜といったものは見せ掛けの富や裕福さであり、精神性の向上や精神的な幸せにはつながらない。真の富とか裕福さ、幸福は、「どれだけ寛大になれるか?」 ということで決まると考えられている。

ラコタにはギブアウェイという考え方がある。“ある人が無い人に出してあげよう”、という考え方だ。ここにも、ラコタの伝統的な考え方が盛り込まれている。ギブアウェイは、その人がいかに寛大であるかを示すものなのだ。

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現代の日本では核家族が主流になっているが、私達日本人の祖先もかつては大家族で生活してきた。

保留地にはこの古き良き時代の名残が、今もしっかり残っている。

私達が保留地を訪れて懐かしさを感じるのは、私達のDNAが同じ価値観を覚えているからなのだろう。

7.ラコタ兄の奥さん、ラコタツアー

2006年5月19日同日夕方。私達一行はラコタ兄の家に到着。

ラコタ兄はその日、仕事のミーティングに出掛けていたので、家で私達を出迎えてくれたのは、ラコタ兄の奥さんだった。私より6歳年上の日本人女性。

このツアーのオリエンテーション・ミーティングの日、私は彼女の写真を見せてもらった。長い黒髪が、腰の辺りまでまっすぐのびている。写真の中の彼女は、カメラのレンズではなく、どこか遠くを見つめていた。私が今まで出会ったラコタ女性にはいつも、どこか凛とした厳しさがあった。写真の中の彼女にも、そういった特質がはっきり映りこんでいた。彼女はすっかり、ラコタ女性になったのだ。

私はこのラコタ兄の奥さんに会うことを、とても楽しみにしていた。私と彼女は同じ町で生まれ育ってきたし、写真を見たときから、私達には接点がたくさんあるのではないかと感じていたのだ。

実際に会ってみて、”やっぱり” と思った。何となく、自分と似ている。

しばらく休憩をとった後、私達一向は地元 TAKINI の学校へ向かった。今日ここで、卒業のパウワウが行われるらしい。ここでは子供の数が非常に少ないので、小中高生が同じ学校へ通っている。

アメリカ・インディアン保留地はどこもそうなのだと思うが、きっちりしたスケジュールなんてものは存在しない。ラコタ兄から ”パウワウは6時か7時にスタートされるはず” と聞いていたが、”始まるのは日没頃だな” と分かっていた。

案の定、始まったのは日没頃。こちらでの日没は9時頃だ。それまでの間、私達は学校の給食室で、夕食を振舞ってもらった。

その間、私とラコタ兄の奥さんはひとしきり自己紹介やら生活のこと、経験談などを一気に語り合った。この人となら、話題は山のようにある。

ラコタ兄の奥さんは7年前、ボスの主催するこのツアーに参加して、ラコタ兄と出会った。2人は意気投合した。その年の冬、ラコタ兄の奥さんは単身でラコタ兄を訪ねて渡米した。そして2人は結婚を決めた。

帰国してから K1 ビザ(フィアンセビザ)の申請作業に取り掛かった。フィアンセビザが下りるまでは、申請してから6ヶ月掛かる。

「申請の期間って、大変だったでしょ?」

と私が聞くと、ラコタ兄の奥さんは大きくうなづいた。

元々、ラコタ兄には奥さんと子供がいた。ラコタ兄の奥さんと結婚を決めた頃には、既に前妻との仲は終わっていた。しかし厄介な事に、ネイティブ・アメリカンの女性は非常に嫉妬深い。前妻はラコタ兄とラコタ兄の奥さんの婚約を聞きつけて、2人の仲を何とか割こうとしてきた。

実際、この前妻は、日本にいるラコタ兄の奥さんの元に手紙を送ってきた事もあった。手紙には、”彼は今、私の元に戻ってきている。彼は私と私達の子供と一緒に暮らしている。だから、あなたの居場所など、どこにもないのよ” などという内容だったらしい。

当時、ラコタ兄の奥さんはあまり英語が話せなかった。だから、電話はほとんど使わなかった。2人ともインターネットを使っていなかったので、連絡方法は専らファックスというレトロな方法だったらしい。

「そんなんで、よく彼のことを信じてここまで来れたよね?」

と私が言うと、ラコタ兄の奥さんはきっぱりこう言った。

「彼のことを信じてた。信じるしか他に無いからね。前妻の単なる嫌がらせだってことは分かっていたのよ」

そうは言っても、内心は不安だったと思う。6ヶ月も離れて暮らしていて信じ続けるというのは、至難の業だ。

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その瞬間、私の記憶は過去に飛んだ。随分前の話になるが、私は一度、ナバホ男性と結婚の約束をしていたことがある。

私達もフィアンセビザを申請した。あいにく、当時彼は定職を持っていなかったので、最初の申請の時点でアメリカ政府に申請を却下された。フィアンセビザのスポンサーとなる人 (アメリカ人)に は、フィアンセとなる外国人配偶者を金銭的にサポートできるという証拠が必要だ。彼の申請が却下された理由は、国に納めた税金の額が一定基準に満たなかったということだった。

私自身、帰国してから、家族や友人を始めとする非常に大勢の人達に結婚を反対されていた。「本当にこの人で幸せになれると思っているの?」 と聞かれると、即断定することが私には出来なかった。

そんな頃、フィアンセの元彼女が私の携帯電話に直接電話を掛けてきた。内容はラコタ兄の奥さんが前妻に言われたのと同じようなもの。”彼は私のところに戻ってきた。私達は今、幸せに暮らしている。だからもう、彼には連絡をしないで欲しい” などと言われた。

その時私がショックだったのは、”元彼女が私の携帯電話番号を持っていた”、ということだった。当然ながら私は彼女とは友人でも何でもないので、連絡先を教えていない。

後日フィアンセから、”彼女は俺が家を留守にしている間に、勝手に部屋を探して君の電話番号を見付けたんだ。俺の事を信じて待っていてくれ” と言われた。

何日も何日も、私はそのことで苦しんだ。本当に結婚して良いのか? こんな些細な事件で、気持ちが揺らぐぐらいなのに…。 

最終的に決断したのは、ナバホ父のツルの一声だった。「俺はあの男のことを、全く信用していない。結婚は絶対に止めておけ」

そして、1年振りにナバホの地を訪れた私は、決定的な証拠を見せられた。私のフィアンセは、本当に元彼女とよりを戻して一緒に暮らしていたし、私が信用して預けていた車も勝手に乗り回されていたのだった。

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私の場合は間違っていたのだが、ラコタ兄と奥さんの場合はホンモノだった。彼らは一緒になるべくしてなった。それは、2人の表情から読み取れる。お互いを信じ合っていて、共に歩んでいることが分かる。

私はラコタ兄と彼の奥さんのことが大好きだ。2人にはこれからもどうか、共に良いパートナーシップを築いていってもらいたい。そして、ボスの主催するこのツアーの良きホストであり続けて欲しい。

6.シャイアンリバー保留地へ ラコタツアー

2006年5月19日。午前中はずっと買い物。午後になってから、いよいよシャイアンリバー保留地へ移動した。ラピッドシティの町から、車で2時間半から3時間ほどの距離。

保留地までの道は、小さな丘を幾つも乗り越える。緩やかな上り坂、下り坂が、ほぼ平均的に続く。周囲を見渡しても、長時間景色が変わらない。

時々ふと、”本当に進んでいるのだろうか?” と不安になることがある。何だか、この道って人生を象徴しているようにも思える。当の本人は進んでいないように感じるのだが、実は少しずつ前に進んでいるのだ。目的地が確実に近付いているのだから…。

出発前の天候は快晴だったのだが、保留地に近付くにつれて少しずつ雨雲が集まってきた。それから、一時的な雨が降った。大地をほんのりと潤してくれる、優しい雨だった。

ネイティブ・アメリカンにとって、雨はグレイト・スピリットからの祝福だ。ラコタの大地が、私達のことを歓迎してくれているのだと感じた。ラコタの大地、どうもありがとう!

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ここで、ラコタ兄の部族について説明しておきたい。

シャイアン・リバー・スーのホームページによると、広さは 2,806,913.95 エーカー (11,359平方キロ)。人口は14,861人。(1990年調べ) 部族の本部はイーグルビュートという町にある。この保留地に住むラコタ支族は、テトン・ラコタ(スー)、ミニコンジュ、シハサパ、オーヘヌンパ、イタジジチョ。

グレート・スー・ネイションはかつて、ノースダコタ・ネブラスカ・ワイオミング・モンタナ・ミズーリ川以西のサウスダコタ全土という広大な領地を治めていた。しかし、白人が侵略してから僅か21年という短い期間の間に、90パーセントもの土地を取り上げられてしまった。そういう事実を知ると、ラコタの人々のことをとても気の毒に感じる。

青は、サンダーバードが棲む天空の雷雲を象徴している。サンダーバードというのは、アメリカ先住民に伝わる神鳥で、体長5メートル弱。大きなワシの姿と、雷の色の羽を持つ。雷と4方向の風を自由自在に操り、狙った獲物を仕留めることができると言われている。

虹は、ラコタの人々にとって最も神聖なパイプを象徴している。「白いバッファローの女」がラコタに子牛のパイプを伝えたと言われている。

世界の端に描かれているワシの羽根は、ラコタの守り主であるワシを象徴している。

2本の融合したパイプは、和合を象徴している。パイプの一つはラコタの人々を示し、もう一つはラコタ以外の人々を示している。

黄色の輪は、決して壊れることのない聖なる輪を象徴している。 赤の聖なるパイプの束は、ワカンタンカ (Great Spirit or Great Mystery)を象徴している。ラコタの色 (赤、黄色、黒、白) は、4つの主たる人種を、青は天空を、それぞれ象徴している。

5.ツアー初日で撃沈 ラコタツアー

2006年5月18日。実質上、この日がツアーの初日だ。

朝食を食べた辺りまでは、調子良かった。ボスの兄貴分であるラコタ男性とも仲良くなれたし、彼からいくつかラコタ語を教えてもらい、それをツアーメンバーに伝えたりしていた。(註:このラコタ男性はボスの兄貴分なので、私にとっても兄貴になる。以降、本記事内では彼のことを「ラコタ兄」と表記する。ちなみに女性から年上の兄を呼ぶときは、ラコタ語で ティーブロ tiblo と言う)

そこまでは良かった。

その後、ミュージアムに行った。

最初に20分ほどの映画を見せてくれた。ラコタの歴史、主にこの土地の簡略な歴史についての映画だった。映画が終わった後、ボスから内容をざっと説明して欲しいと頼まれた。でも全くうまく出来なかった。こういう場合、頭の中で内容を整理してから、要点だけを分かりやすくかいつまんで話してあげる方が良い。なのに私は聞こえた単語をメモに取る事に必死すぎて、全体の内容を理解する所までは至ってなかった。

私の下手すぎる、つたなすぎる説明の後、ボスがさりげなく要点をみんなに伝えてくれた。

ほっとする反面、一気に落ち込んだ。

その後もミュージアムの中を見学する際、ボスがラコタの神話やら歴史を織り交ぜながら、一つ一つの展示品について説明してくれた。

今回はボスがいてくれたから良かったけれど、ここでの私はただひたすらボスの話を聞くだけ、要するにツアーのお客さんと全く同じ立場になってしまっていた。

私は何も役に立ててない!

ボスに対して、みんなに対して、申し訳ない気持ちで一杯になった。

ボスはそんな私の気持ちを察してくれていて、大事なところで私を使ってくれた。あくまでもさりげなく。この人はすごいと思った。ボス1人いれば、ガイドも通訳もこなせる。けれども、敢えてこの人は、私を使ってくれているし、私のことを立ててくれている。

間違いなく、ラコタ兄も私の気持ちを察してくれていた。いろいろと説明をしてくれるのだが、肝心な部分を省略してあったりするので、ボスの説明の方が断然分かりやすい。理由は明白だ。ラコタ兄にとって常識である部分を省略してあるからだ。でも日本人である私達にとっては、その省略された部分から説明してもらわないと、全体的に理解する事は出来ない。つまり、省略された部分があったなら、それを補えるだけの知識を予め持っていないとダメなのだ。

落ち込んでばかりもいられない。今回はボスの説明をしっかりメモする事に徹しよう。次回7月には、今回よりもう少し役に立てるように予習しとかなくちゃ!

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ちなみにその時に見た映画の内容はざっとこんな感じ。

ブラックヒルズは聖なる土地だ。私達が生まれるずっと前から、じっとこの場所で歴史を刻んでいる。いろんなことを見聞きしていて、それらはラコタの神話や歌の中に盛り込まれている。でも、すべてを知っているのはブラックヒルズだけ。ラコタの人々はブラックヒルズを パハ・サパ Paha Sapa と呼び、大切にしていた。精霊の存在を感じられる場所であり、バッファローやビッグホーンシープなどが生息する聖なる場所だった。

1800年代半ばになると、全米でゴールドラッシュの波が押し寄せた。当時、金は見付けた人のものになるという慣習がまかり通っていたので、全米から開拓者がこぞって金を探しまくった。1874年、サウスダコタ州ブラックヒルズに莫大な金鉱が埋まっていると報じられた。

そのニュースが報じられる数年前の 1868年、合衆国とラコタは戦いの末、フォートララミー条約を締結した。”ブラックヒルズを含むサウスダコタ西部の土地には、ラコタの専住権を認める”、という内容だった。しかし莫大な金鉱が埋まっているとなると、合衆国はどうしてもこの土地が欲しくなった。

条約締結からわずか6年後、合衆国は探検と砦の建設を口実にして陸軍を保護区に派遣し、金銀鉱の調査を行った。調査隊はいくつもの鉱脈を発見した。一説によると、この調査の本当の目的は、ブラックヒルズに軍の基地を設置しておきたかったからだそうだ。そうすれば、今後、ラコタとの戦いが生じたときに、有利になるだろうと、アメリカ軍が考えたからだ。

政府はラコタに使節を送り、ブラックヒルズを買い取りたいと申し出た。ラコタからしてみれば、いくら大金を詰まれたところで、聖地を売り渡すつもりなどさらさらない。当然ながら、交渉は決裂した。

ラコタは狩猟民族だ。毎年冬になると数百キロ離れた狩猟地域へ狩りに出る習慣があった。その間はリザベーションを離れることになるのだが、この権利も条約でしっかりと保障されていた。

それなのに1875年の冬、合衆国はラコタ男性たちが狩りに出たのを見計らって、留守を守っていたラコタの女性たちや子供たちに一方的に通告した。

「すべてのインディアンはただちにリザベーションに戻れ。1876年1月31日までに全員が戻らなければ、戦争行為とみなす」

獲物を追って常に移動している者達に、即刻連絡を取るなど当時は不可能だった。それに連絡が取れたとしても、期日までに戻るには距離が遠すぎる。

1876年2月1日。政府はラコタが戦争を仕掛けてきたといちゃもんを付け、軍隊を送り込んだ。ラコタ側はシャイアン族やアラパホ族と連合して、対抗する姿勢を見せた。リトルビッグホーンの戦い(1876年6月25日)で、カスター率いる第七騎兵隊との戦いでは勝利を治め、勢いに乗っていた。この時に連合軍を率いていたのが、シッティング・ブル、ゴール、クレイジー・ホース、ツー・ムーンズらだ。しかし、政府側はその後も容赦ない攻撃を続け、連合軍は追い散らされ、殺された。

1876年。連邦議会はラコタに使節を送り込んだ。合衆国が今後の生活援助を保証する。その代わり、ブラックヒルズやその他の土地を放棄し、北部での狩猟権も放棄するという内容の条約に無理やり調印させた。

20世紀に入ってから、ラコタは「聖地を返還せよ」という運動を起こした。それは今も続いている。

4.壊されたスーツケース ラコタツアー

2006年5月17日同日。家を出発してから実に31時間後、ようやく最終目的地空港であるラピッド・シティ空港に到着。現地時間では夜10時を過ぎていた。みんなヘトヘトだったに違いない。

ここで一つ問題が起きた。お客さんのスーツケースが壊されていたのだ。

現在アメリカへ入国する際の機内預け入れ荷物は、すべて鍵を開けておかなければならない。係員がいつでも中身を確認できるようにするためらしい。

私達は全員、そのことを知っていたし、このお客さんもスーツケースには鍵をかけていなかった。なのに、この壊されたスーツケースには、明らかにスパナか何かでこじ開けた形跡があった。両サイドのフック部分が完全に壊れており、スーツケースは閉まらなくなっていた。

通常、これは簡単な手続きで済む。

以前、私の友人が同じ目に遭ったことがあった。空港係員に申し出ると、すぐに代替のスーツケース(新品)と交換してもらえたのだった。

しかし運悪く、その時は係員が2人しかいなかったし、同じようなクレームを言おうとしているお客さんが他にも大勢いた。クレームを言うには長蛇の列に並ばなければならない。私はボスと一緒にレンタカー・カウンターへ行かなければなかなかったので、列に並んでいる時間がなかった。

そこで英語が話せるある人に、この件はまかせることにした。”こちらは鍵をかけていなかったのだから、こちらの落ち度ではない。だから代替のスーツケースを出してもらいたいと係員に伝えて欲しい”、とその人に念押しした。

レンタカー手続きが済むと、その人からこんな風に報告を受けた。

「この時間帯はマネージャーがいないらしい。明日朝にでも、マネージャーに電話を掛けるようにと言われた」

そう言って、名前と電話番号が書かれたメモを渡された。

翌朝その番号に電話をしてみたが、ダイレクトに留守番電話につながる番号だった。これでは埒が明かない。そこで空港に直接行ってみることにした。

手荷物受取所のカウンターの係員に、昨日もらったメモを見せた。 「この名前の人に会わせて欲しい。この人がマネージャーなんだそうです」

その係員はこう言った。「これは私の名前で、私がマネージャーです」

しばらく話をしてみたが、どうも噛み合わない。昨日聞いた話とは異なる。「マネージャーがいないから翌日に電話をしろと言われた」と聞いていたが、この人がマネージャーらしい。それに、この人が昨日うちのメンバーと直接話をした人だと言う。

私はこの係員の態度が気に入らなかった。スーツケースを壊されたのは空港側のミスで、私達のミスではないのに、申し訳ないといった態度が微塵もなかったからだ。

いつもの悪い癖が出た。トサカに血が上り、思わず声が怒鳴り声になってしまったのだ。

「大体あんた、何で謝らないのよ? 昨日もうちのメンバーが伝えたと思うけど、こっちに落ち度はないのよ。鍵はちゃんと開けておいたんだから。そちらの係員が施錠されているかどうかの確認もせずに、無理やりこじ開けられたから壊れた。あんたんとこのミスなのよ。早く代替のスーツケースを出しなさいよ」

マネージャーはびっくりした表情になった。「昨日はそんなこと一言も聞いてない。だから、”そちらがルールを破って鍵を閉めていたから、こちらはルールに従ってスパナでスーツケースをこじ開けて中身を確認した”旨を伝えた」と言う。

思わず絶句してしまった。昨日まかせた人がこの件を係員に伝えてくれていなかったのだ。

私は声を荒げてしまったことを係員に詫びた。それから、落ち着いてきちんと事情を説明した。

係員はにっこりと微笑んだ。「そういうことなら、すぐに代替のスーツケースを出しますよ」 そう言って、奥の部屋から新品のスーツケースを出してくれた。

とりあえずは一件落着。

この一件で私が学んだのは、”人任せにしてはいけない”ということ。

私は今回、スタッフとしてこのツアーに参加している。つまりお客さんを守る義務がある。今回の一件は、私が自分の任務をきちんと遂行しなかったことに落ち度がある。

ナバホ父がよく言っている。

「失敗は学びのプロセスだ」 (Mistake is just a Learning Process!)

これからは、ちゃんと義務をまっとうしよう。