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  • 7.ラコタ兄の奥さん、ラコタツアー

    2006年5月19日同日夕方。私達一行はラコタ兄の家に到着。

    ラコタ兄はその日、仕事のミーティングに出掛けていたので、家で私達を出迎えてくれたのは、ラコタ兄の奥さんだった。私より6歳年上の日本人女性。

    このツアーのオリエンテーション・ミーティングの日、私は彼女の写真を見せてもらった。長い黒髪が、腰の辺りまでまっすぐのびている。写真の中の彼女は、カメラのレンズではなく、どこか遠くを見つめていた。私が今まで出会ったラコタ女性にはいつも、どこか凛とした厳しさがあった。写真の中の彼女にも、そういった特質がはっきり映りこんでいた。彼女はすっかり、ラコタ女性になったのだ。

    私はこのラコタ兄の奥さんに会うことを、とても楽しみにしていた。私と彼女は同じ町で生まれ育ってきたし、写真を見たときから、私達には接点がたくさんあるのではないかと感じていたのだ。

    実際に会ってみて、”やっぱり” と思った。何となく、自分と似ている。

    しばらく休憩をとった後、私達一向は地元 TAKINI の学校へ向かった。今日ここで、卒業のパウワウが行われるらしい。ここでは子供の数が非常に少ないので、小中高生が同じ学校へ通っている。

    アメリカ・インディアン保留地はどこもそうなのだと思うが、きっちりしたスケジュールなんてものは存在しない。ラコタ兄から ”パウワウは6時か7時にスタートされるはず” と聞いていたが、”始まるのは日没頃だな” と分かっていた。

    案の定、始まったのは日没頃。こちらでの日没は9時頃だ。それまでの間、私達は学校の給食室で、夕食を振舞ってもらった。

    その間、私とラコタ兄の奥さんはひとしきり自己紹介やら生活のこと、経験談などを一気に語り合った。この人となら、話題は山のようにある。

    ラコタ兄の奥さんは7年前、ボスの主催するこのツアーに参加して、ラコタ兄と出会った。2人は意気投合した。その年の冬、ラコタ兄の奥さんは単身でラコタ兄を訪ねて渡米した。そして2人は結婚を決めた。

    帰国してから K1 ビザ(フィアンセビザ)の申請作業に取り掛かった。フィアンセビザが下りるまでは、申請してから6ヶ月掛かる。

    「申請の期間って、大変だったでしょ?」

    と私が聞くと、ラコタ兄の奥さんは大きくうなづいた。

    元々、ラコタ兄には奥さんと子供がいた。ラコタ兄の奥さんと結婚を決めた頃には、既に前妻との仲は終わっていた。しかし厄介な事に、ネイティブ・アメリカンの女性は非常に嫉妬深い。前妻はラコタ兄とラコタ兄の奥さんの婚約を聞きつけて、2人の仲を何とか割こうとしてきた。

    実際、この前妻は、日本にいるラコタ兄の奥さんの元に手紙を送ってきた事もあった。手紙には、”彼は今、私の元に戻ってきている。彼は私と私達の子供と一緒に暮らしている。だから、あなたの居場所など、どこにもないのよ” などという内容だったらしい。

    当時、ラコタ兄の奥さんはあまり英語が話せなかった。だから、電話はほとんど使わなかった。2人ともインターネットを使っていなかったので、連絡方法は専らファックスというレトロな方法だったらしい。

    「そんなんで、よく彼のことを信じてここまで来れたよね?」

    と私が言うと、ラコタ兄の奥さんはきっぱりこう言った。

    「彼のことを信じてた。信じるしか他に無いからね。前妻の単なる嫌がらせだってことは分かっていたのよ」

    そうは言っても、内心は不安だったと思う。6ヶ月も離れて暮らしていて信じ続けるというのは、至難の業だ。

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    その瞬間、私の記憶は過去に飛んだ。随分前の話になるが、私は一度、ナバホ男性と結婚の約束をしていたことがある。

    私達もフィアンセビザを申請した。あいにく、当時彼は定職を持っていなかったので、最初の申請の時点でアメリカ政府に申請を却下された。フィアンセビザのスポンサーとなる人 (アメリカ人)に は、フィアンセとなる外国人配偶者を金銭的にサポートできるという証拠が必要だ。彼の申請が却下された理由は、国に納めた税金の額が一定基準に満たなかったということだった。

    私自身、帰国してから、家族や友人を始めとする非常に大勢の人達に結婚を反対されていた。「本当にこの人で幸せになれると思っているの?」 と聞かれると、即断定することが私には出来なかった。

    そんな頃、フィアンセの元彼女が私の携帯電話に直接電話を掛けてきた。内容はラコタ兄の奥さんが前妻に言われたのと同じようなもの。”彼は私のところに戻ってきた。私達は今、幸せに暮らしている。だからもう、彼には連絡をしないで欲しい” などと言われた。

    その時私がショックだったのは、”元彼女が私の携帯電話番号を持っていた”、ということだった。当然ながら私は彼女とは友人でも何でもないので、連絡先を教えていない。

    後日フィアンセから、”彼女は俺が家を留守にしている間に、勝手に部屋を探して君の電話番号を見付けたんだ。俺の事を信じて待っていてくれ” と言われた。

    何日も何日も、私はそのことで苦しんだ。本当に結婚して良いのか? こんな些細な事件で、気持ちが揺らぐぐらいなのに…。 

    最終的に決断したのは、ナバホ父のツルの一声だった。「俺はあの男のことを、全く信用していない。結婚は絶対に止めておけ」

    そして、1年振りにナバホの地を訪れた私は、決定的な証拠を見せられた。私のフィアンセは、本当に元彼女とよりを戻して一緒に暮らしていたし、私が信用して預けていた車も勝手に乗り回されていたのだった。

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    私の場合は間違っていたのだが、ラコタ兄と奥さんの場合はホンモノだった。彼らは一緒になるべくしてなった。それは、2人の表情から読み取れる。お互いを信じ合っていて、共に歩んでいることが分かる。

    私はラコタ兄と彼の奥さんのことが大好きだ。2人にはこれからもどうか、共に良いパートナーシップを築いていってもらいたい。そして、ボスの主催するこのツアーの良きホストであり続けて欲しい。


  • 6.シャイアンリバー保留地へ ラコタツアー

    2006年5月19日。午前中はずっと買い物。午後になってから、いよいよシャイアンリバー保留地へ移動した。ラピッドシティの町から、車で2時間半から3時間ほどの距離。

    保留地までの道は、小さな丘を幾つも乗り越える。緩やかな上り坂、下り坂が、ほぼ平均的に続く。周囲を見渡しても、長時間景色が変わらない。

    時々ふと、”本当に進んでいるのだろうか?” と不安になることがある。何だか、この道って人生を象徴しているようにも思える。当の本人は進んでいないように感じるのだが、実は少しずつ前に進んでいるのだ。目的地が確実に近付いているのだから…。

    出発前の天候は快晴だったのだが、保留地に近付くにつれて少しずつ雨雲が集まってきた。それから、一時的な雨が降った。大地をほんのりと潤してくれる、優しい雨だった。

    ネイティブ・アメリカンにとって、雨はグレイト・スピリットからの祝福だ。ラコタの大地が、私達のことを歓迎してくれているのだと感じた。ラコタの大地、どうもありがとう!

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    ここで、ラコタ兄の部族について説明しておきたい。

    シャイアン・リバー・スーのホームページによると、広さは 2,806,913.95 エーカー (11,359平方キロ)。人口は14,861人。(1990年調べ) 部族の本部はイーグルビュートという町にある。この保留地に住むラコタ支族は、テトン・ラコタ(スー)、ミニコンジュ、シハサパ、オーヘヌンパ、イタジジチョ。

    グレート・スー・ネイションはかつて、ノースダコタ・ネブラスカ・ワイオミング・モンタナ・ミズーリ川以西のサウスダコタ全土という広大な領地を治めていた。しかし、白人が侵略してから僅か21年という短い期間の間に、90パーセントもの土地を取り上げられてしまった。そういう事実を知ると、ラコタの人々のことをとても気の毒に感じる。

    青は、サンダーバードが棲む天空の雷雲を象徴している。サンダーバードというのは、アメリカ先住民に伝わる神鳥で、体長5メートル弱。大きなワシの姿と、雷の色の羽を持つ。雷と4方向の風を自由自在に操り、狙った獲物を仕留めることができると言われている。

    虹は、ラコタの人々にとって最も神聖なパイプを象徴している。「白いバッファローの女」がラコタに子牛のパイプを伝えたと言われている。

    世界の端に描かれているワシの羽根は、ラコタの守り主であるワシを象徴している。

    2本の融合したパイプは、和合を象徴している。パイプの一つはラコタの人々を示し、もう一つはラコタ以外の人々を示している。

    黄色の輪は、決して壊れることのない聖なる輪を象徴している。 赤の聖なるパイプの束は、ワカンタンカ (Great Spirit or Great Mystery)を象徴している。ラコタの色 (赤、黄色、黒、白) は、4つの主たる人種を、青は天空を、それぞれ象徴している。


  • 5.ツアー初日で撃沈 ラコタツアー

    2006年5月18日。実質上、この日がツアーの初日だ。

    朝食を食べた辺りまでは、調子良かった。ボスの兄貴分であるラコタ男性とも仲良くなれたし、彼からいくつかラコタ語を教えてもらい、それをツアーメンバーに伝えたりしていた。(註:このラコタ男性はボスの兄貴分なので、私にとっても兄貴になる。以降、本記事内では彼のことを「ラコタ兄」と表記する。ちなみに女性から年上の兄を呼ぶときは、ラコタ語で ティーブロ tiblo と言う)

    そこまでは良かった。

    その後、ミュージアムに行った。

    最初に20分ほどの映画を見せてくれた。ラコタの歴史、主にこの土地の簡略な歴史についての映画だった。映画が終わった後、ボスから内容をざっと説明して欲しいと頼まれた。でも全くうまく出来なかった。こういう場合、頭の中で内容を整理してから、要点だけを分かりやすくかいつまんで話してあげる方が良い。なのに私は聞こえた単語をメモに取る事に必死すぎて、全体の内容を理解する所までは至ってなかった。

    私の下手すぎる、つたなすぎる説明の後、ボスがさりげなく要点をみんなに伝えてくれた。

    ほっとする反面、一気に落ち込んだ。

    その後もミュージアムの中を見学する際、ボスがラコタの神話やら歴史を織り交ぜながら、一つ一つの展示品について説明してくれた。

    今回はボスがいてくれたから良かったけれど、ここでの私はただひたすらボスの話を聞くだけ、要するにツアーのお客さんと全く同じ立場になってしまっていた。

    私は何も役に立ててない!

    ボスに対して、みんなに対して、申し訳ない気持ちで一杯になった。

    ボスはそんな私の気持ちを察してくれていて、大事なところで私を使ってくれた。あくまでもさりげなく。この人はすごいと思った。ボス1人いれば、ガイドも通訳もこなせる。けれども、敢えてこの人は、私を使ってくれているし、私のことを立ててくれている。

    間違いなく、ラコタ兄も私の気持ちを察してくれていた。いろいろと説明をしてくれるのだが、肝心な部分を省略してあったりするので、ボスの説明の方が断然分かりやすい。理由は明白だ。ラコタ兄にとって常識である部分を省略してあるからだ。でも日本人である私達にとっては、その省略された部分から説明してもらわないと、全体的に理解する事は出来ない。つまり、省略された部分があったなら、それを補えるだけの知識を予め持っていないとダメなのだ。

    落ち込んでばかりもいられない。今回はボスの説明をしっかりメモする事に徹しよう。次回7月には、今回よりもう少し役に立てるように予習しとかなくちゃ!

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    ちなみにその時に見た映画の内容はざっとこんな感じ。

    ブラックヒルズは聖なる土地だ。私達が生まれるずっと前から、じっとこの場所で歴史を刻んでいる。いろんなことを見聞きしていて、それらはラコタの神話や歌の中に盛り込まれている。でも、すべてを知っているのはブラックヒルズだけ。ラコタの人々はブラックヒルズを パハ・サパ Paha Sapa と呼び、大切にしていた。精霊の存在を感じられる場所であり、バッファローやビッグホーンシープなどが生息する聖なる場所だった。

    1800年代半ばになると、全米でゴールドラッシュの波が押し寄せた。当時、金は見付けた人のものになるという慣習がまかり通っていたので、全米から開拓者がこぞって金を探しまくった。1874年、サウスダコタ州ブラックヒルズに莫大な金鉱が埋まっていると報じられた。

    そのニュースが報じられる数年前の 1868年、合衆国とラコタは戦いの末、フォートララミー条約を締結した。”ブラックヒルズを含むサウスダコタ西部の土地には、ラコタの専住権を認める”、という内容だった。しかし莫大な金鉱が埋まっているとなると、合衆国はどうしてもこの土地が欲しくなった。

    条約締結からわずか6年後、合衆国は探検と砦の建設を口実にして陸軍を保護区に派遣し、金銀鉱の調査を行った。調査隊はいくつもの鉱脈を発見した。一説によると、この調査の本当の目的は、ブラックヒルズに軍の基地を設置しておきたかったからだそうだ。そうすれば、今後、ラコタとの戦いが生じたときに、有利になるだろうと、アメリカ軍が考えたからだ。

    政府はラコタに使節を送り、ブラックヒルズを買い取りたいと申し出た。ラコタからしてみれば、いくら大金を詰まれたところで、聖地を売り渡すつもりなどさらさらない。当然ながら、交渉は決裂した。

    ラコタは狩猟民族だ。毎年冬になると数百キロ離れた狩猟地域へ狩りに出る習慣があった。その間はリザベーションを離れることになるのだが、この権利も条約でしっかりと保障されていた。

    それなのに1875年の冬、合衆国はラコタ男性たちが狩りに出たのを見計らって、留守を守っていたラコタの女性たちや子供たちに一方的に通告した。

    「すべてのインディアンはただちにリザベーションに戻れ。1876年1月31日までに全員が戻らなければ、戦争行為とみなす」

    獲物を追って常に移動している者達に、即刻連絡を取るなど当時は不可能だった。それに連絡が取れたとしても、期日までに戻るには距離が遠すぎる。

    1876年2月1日。政府はラコタが戦争を仕掛けてきたといちゃもんを付け、軍隊を送り込んだ。ラコタ側はシャイアン族やアラパホ族と連合して、対抗する姿勢を見せた。リトルビッグホーンの戦い(1876年6月25日)で、カスター率いる第七騎兵隊との戦いでは勝利を治め、勢いに乗っていた。この時に連合軍を率いていたのが、シッティング・ブル、ゴール、クレイジー・ホース、ツー・ムーンズらだ。しかし、政府側はその後も容赦ない攻撃を続け、連合軍は追い散らされ、殺された。

    1876年。連邦議会はラコタに使節を送り込んだ。合衆国が今後の生活援助を保証する。その代わり、ブラックヒルズやその他の土地を放棄し、北部での狩猟権も放棄するという内容の条約に無理やり調印させた。

    20世紀に入ってから、ラコタは「聖地を返還せよ」という運動を起こした。それは今も続いている。