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「初めての海外旅行 シンガポール」子供時代
初めての海外旅行は15歳の時。家族でシンガポールへ行く事になった。
正直言って、私は乗り気では無かった。何と言っても、外国は未知の世界。恐ろしい所に違いない。家族がいそいそと旅の支度をしている傍らで、私が準備したものは遺書だった。「遺書を書いておかなければ・・・」 と思った。飛行機が落ちたら家族は全員死ぬことになる。だから、遺書は叔母に宛てて書いた。
遺書の内容はもっぱらお願い事だった。私達にもしものことがあれば、インコのピーちゃんの世話をお願いしますだの、私の日記は絶対に読まずに燃やして処分して下さいだの、そういったたわいも無い事ばかり。けれども本人は至って真剣だった。「私の貯金は全部おばちゃんにあげます」と締めくくった。
父は自由旅行が好きな人で、ツアーに入るのを嫌う。その時も航空券とホテルの予約しか取っていなかったので、ホテルまではタクシーで行くことになった。
空港からホテルまではタクシーを使った。父からは車で20分位だと聞いていたのに、1時間以上経ってもまだホテルに着かない。怖くてたまらなかった。冷静な今となっては、タクシー運転手が料金をぼったくる為に車をぐるぐると回していただけなのだろうが、当時はそんなことは分かるはずも無い。
ホテルの部屋に着くと、私は泣きじゃくった。”帰ろう、帰ろう”、と言って両親を困らせた。気が付くと全身を掻きむしっていた。全身じんましんが出たのだ。困り果てた両親は、私にある錠剤を二粒くれた。それを飲むと私は急激な睡魔に襲われ、気が付くと朝になっていた。
その時には、全身じんましんはすっかり消えていた。後にも先にも、全身じんましんが出たのはその一回だけ。
何年も経ってから、ずっと気になっていたことを母に聞いた。”私の家族は誰もじんましん体質では無いのに、どうしてあの時母はじんましんの薬を持っていたのか?”
母はすましてこう言った。「じんましんの薬じゃないよ。下痢止めか何かだと思うけど。もう覚えていないわよ」
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「弟」子供時代
私が子供の頃、家族メンバーに雄のシェルティ(シェットランドシープドッグ、ミニコリーとも呼ばれる)がいた。きれいな顔立ちをした、性格の優しい犬だった。私にとっては弟のような存在だった。
弟が11歳になったある日、私は夢をみた。弟が死ぬ夢だった。現実なのかと思うほど、はっきりとした夢だった。夢の中で私は泣いた。目が覚めて意識が現実に戻ってからも、涙が止まらない。
一階にいる弟の元に走って行って、弟を抱きしめた。弟の体は温かくて、私はほっとした。単なる夢だと思いたかった。けれど心のどこかで、それが予知夢だと分かっていた。
それから何日かが過ぎた。その日は日曜で、私はアルバイトに出掛けていた。昼過ぎになって、バイト先で館内放送が流れた。私の名前が呼ばれていた。
受付まで走っているときに、弟が逝ったことを母が知らせてきたのだと直感した。 走りながら、既に涙がこぼれ始めいていた。
受付の男性は電話を私に手渡した。案の定、母からの電話だった。受話器の向こうから母のすすり泣きが聞こえる。しばらく無言のまま、私は受話器を握り締めていた。 それから母は、搾り出すような小さな声で言った。 「もう動かないのよ」
私はその場で泣き崩れた。
私が家に着く頃には、父も仕事から戻ってくれていた。兄はその時東京に居たので帰って来られなかった。両親と私はしばらく弟の体をさすった。弟の体は冷たくて固かった。
まるで時が止まったみたいに静かだった。誰も何も言わず、ただ弟のそばに座っていた。
翌日、私達3人は弟を動物用の火葬場に連れて行き、お別れをした。そうして弟の体は、骨と灰になった。
葬儀から戻る車の中で、父はこんなことを言った。「この世の命あるものは全て例外なく、死を迎える宿命なんだ。時間は誰にも止められない。だから命ある限り、精一杯悔いの残らないように生きなきゃいけない。」
「悔いの無いように」の部分が引っかかった。私は弟にいつも誠実に接していただろうか? していなかった。都合の良い時だけ可愛がって、世話はほとんど母にまかせっきりだった。それなのに弟は私を癒してくれた。弟の存在は家族みんなを癒してくれていた。
私の愛する弟、誠実でなくてごめんなさい。たくさん思い出をありがとう。私の家族になってくれてありがとう。
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「サバイバルトレーニング」 子供時代
私が小学校5年の頃、学校の掲示板に一枚のポスターが張り出された。県が主催するキャンプの案内だった。キャンプの名前は「サバイバルトレーニング」。なんて魅力的なんだ、と思った。そして、絶対行こう、と決めた。
家に帰って両親に頼んでみると、両親は意外にもすんなり許可をくれた。
一緒に行こうと誘えるような友達が居なかった訳ではない。しかしポスターを見た瞬間から、私は一人で参加すると決めていた。学校や近所以外で、新しい友達を作りたいと考えていたのだ。
キャンプの開催地までは、電車とバスを乗り継いでいかなければならなかった。私の住んでいる町は割と都会なので、区間ごとに料金が上がって行くバスに乗るのは、初めての体験だった。両親も行ったことの無い所へ自分一人で行く、ということが私の冒険心をあおった。
キャンプ場に着くと、まず少人数の班に分けられた。男の子4人、女の子4人の計8人ずつで、6つの班があった。各班にはそれぞれ一人ずつ、大人の先生がリーダーとして担当する。以後の行動はすべて、各班で協力して行うことになった。
まず山へ行って竹を切り、それを使って箸や食器、スプーン、コップを作る。夕方になり、へとへとになった頃から料理を始める。初日の夕食はカレーだった。
カレーは私の大好物。それにお腹もぺこぺこだったので一秒でも早く作って食べたかった。猛スピードで野菜を切り終え、具を鍋の中に放り込んだ。
すると一人の女の子が、私の所にやってきてこう言った。「あのぅ。この鍋、うちの班のやねんけど…」
めちゃくちゃ急いでいたので、私は隣の班の鍋に、具を放り込んでいたのだった。ゲ! 間違えた! どうしよう!? 隣の班の女の子、怒ってるだろうな…。心配になり、おずおずと彼女の顔を見上げた。しかし次の瞬間、彼女は大きな声で 「ガハハ!」 と笑い始めた。良かった! 怒ってないし、笑ってくれた! 私はほっと胸をなでおろした。それがきっかけとなり、その子と私は仲良くなった。
それ以降、その子は私のかけがえのない親友になった。
無事夕食が終わって、キャンプファイヤーが始まった。キャンプファイヤーは班毎に行なう。せっかく仲良くなった友達は、隣の班なのが残念だった。
私達の班のリーダーは、「エゴさん」というニックネームだった。優しくて親切で良い人だった。ただ、エゴさんは年をとっていた。キャンプファイヤーの進行はリーダーによって決まる。うちの班のキャンプファイヤーは、静かにエゴさんの昔話を聞くだけという、極めて地味なものであった。
隣の友人の班はというと、リーダーは若い青年だった。リーダーはスコットランド風のスカートをはいており、友人達は何やら楽しげに踊りを習っていた。夜が更けるに連れて、R達の楽しげな笑い声と手拍子のボリュームが上がった。するとエゴさんも、負けじとボリュームを上げる。「わしの若い頃には……。」という地味なフレーズ。
エゴさんの株が上がった時もあった。例えば山へ野草を取りに行った時などは、エゴさんがリーダーで良かったと思った。エゴさんは食べられる野菜に詳しかったので、うちの班は食べるものが豊富に取れたのだ。
何しろ、キャンプのタイトルが「サバイバルトレーニング」である以上、自分の食べるものは自分で取る、という趣旨なのである。子供たちは皆、常にお腹を空かせている状態だった。
「鮎のつかみどり」というのがあった。取った鮎がその日の夕食になるのだ。「取れなかったら夕食抜き」とリーダーに脅されていたので、みんな死に物狂いで掴んだものだ。そんな苦労をしてとった鮎だから、格別に美味しかった。
最後の夜は、みんなそろって盛大なキャンプファイヤーをすることになった。私はそれを心待ちにしていた。あの楽しそうなダンスを、教えてもらえるかもしれない。私はあまりにも興奮していたようである。肝心のキャンプファイヤー直前に鼻血が出てしまい、医務室で過ごす羽目になったのだ。
医務室の先生がこう言った。「鼻血が止まったら、キャンプファイヤー場に行ってみなさい。みんなにおにぎり2個ずつとお味噌汁を配っているはずよ。」
くどいようだが、このキャンプの名前は「サバイバルトレーニング」。言い換えれば空腹に耐える我慢大会のようなもの。ずっと空腹状態が続いているのだ。「おにぎりが食べられる」というのは、予想外のグッドニュースだった。
鼻血を止める方法は知っていた。鼻をかんで血を出し切ってしまうのだ。そうやって、私はすばやく鼻血を出し切り、キャンプファイヤー場へと急いだ。
ようやく着いた頃には、火も小さくなっていて、食事も終わった後だった。
「私のおにぎりと味噌汁はどこ??」 同じ班の子に聞いてみた。するとその子は申し訳無さそうにこう言った。「つい今さっき、モモコちゃんがあなたの分も食べちゃったわよ。」
目の前が真っ白になった。あまりにもショックだったので、モモコちゃんを怒鳴るとかそういうことは、何も思いつかなかった。ただ、力なく地面に座り込んだ。
モモコちゃんというのは私の班にいた、ちょっぴり太目の女の子だった。それ以来私が、「モモコ」という名前に敏感に反応してしまうようになったのは言うまでもない。
